裁判員制度 性暴力被害者の名前などが公表される!

 とりいそぎ転載します。てかありえん。通名を使ってる在日もアウティングされるのか?これ、自殺する被害者が続出しても全然おかしくないだろ。


***大至急!**転載転送大歓迎**
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裁判員選任手続きにおける性暴力被害者の安全とプライバシーの
確保を求める緊急要請にご賛同ください
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みなさま

 5月6日付読売新聞九州版で報じられたように、21日に開始される裁判員制度裁判員選任手続きにおいて、性暴力事件被害者の氏名が裁判員候補者に開示されてしまうことが明らかになりました。しかし最高裁はこの問題について対策指針を出していません。

http://kyushu.yomiuri.co.jp/news/national/20090506-OYS1T00229.htm

 被害者保護の手段を講じることなく制度を開始してしまわないよう、緊急の要請を行うことにしました。21日まで時間がありませんが、できるだけ多くの団体・個人の声を届けたいと思いますので、どうぞご協力をお願いいたします。

 なお最高裁への申し入れを19日に予定しています。

●賛同署名の集約先●
以下のフォームを利用してajwrc.shomei@gmail.comにお送りください。
*******************
裁判員制度における被害者のプライバシー確保を求める要請に賛同します。

●団体賛同の方
団体名:
●個人賛同の方
氏名:
肩書き(あれば):
*******************


要請書
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裁判員選任手続きにおける性暴力被害者の安全とプライバシーの確保を求めます
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最高裁判所長官 竹崎博允 様

 私たちは、性暴力被害者の権利回復の観点から、5月21日より開始される裁判員制度における性暴力犯罪の取り扱い、とりわけ被害者のプライバシー保護について、重大な懸念を抱くものです。

 裁判員が参加する刑事裁判が対象とする事件には、性暴力犯罪である強姦致死傷、強盗強姦、強制わいせつ致死傷、集団強姦致死傷が含まれますが、これらは対象事件の2割以上を占めると予想されています。にもかかわらず、報道によれば、性暴力犯罪事件においても、他の事件と同様に、それぞれの事件で100人にも及ぶ裁判員候補者に対し事件の概要と被害者の氏名が知らされるとのことです。

 裁判員候補者が事件の情報を漏洩することは「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」の秘密漏示罪の対象とはならず、漏洩を防止する確実な手段は整備されていません。しかし最高裁判所はこの問題に対する対策の指針を出さず、各地方裁判所に解決をゆだねる方針であると報じられています。これでは、地裁によってまちまちな解決策となり、被害者のプライバシー保護が公平に保障されない可能性が否めません。現在刑事裁判において被害者のプライバシーが保障されていることとも大きく矛盾します。

 性暴力犯罪は他の犯罪と異なり、性・ジェンダーに関わる社会的偏見ゆえに、しばしば被害者の側に責任が転嫁されたり、スティグマが付与されてきました。

 適切な配慮が行われなければ、裁判プロセスそのものが二次被害を及ぼす場となる危険性があります。こうした性暴力犯罪の特殊な性質が考慮されることなく、他の刑事事件と同様の選任手続きが行われれば、被害者に二次被害発生の不安を呼び起こすだけでなく、二次被害を避けるために、被害にあっても被害届を出さないといった傾向を助長することにもなりかねません。

 一般市民が参加する裁判員制度で性暴力犯罪を取り扱う上では、性・ジェンダー偏見を排除するために十分な配慮を払い、被害者のプライバシーと安全を確保することが必要不可欠です。事件情報の漏洩を確実に防止する措置を講じることなく、拙速に裁判員制度を開始すれば、この制度そのものが、被害者にさらなる加害を招き、性暴力犯罪の訴追と被害者の救済を阻害する原因となりかねません。
被害当事者および支援者との協議のうえ確実な安全保護の措置が講じられるまで、裁判員制度の開始を延期するか、それが困難な場合は、性犯罪に関連する事件について裁判員選任手続きを開始しないよう要請いたします。
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「貧乏は自己責任」―週刊金曜日が激白か?

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 上の記事のbefore/afterで取り上げた「年金と生活保護が月たった5万のBIにとってかわるダンコーガイワールド」(©hokusyuさん)については、お約束どおり(?)『週刊金曜日』の北村編集長がもてはやしている*1のでした。こうなってくると、『金曜日』編集部には、かなり過酷な読者削減ノルマが課せられているのではないか、という疑惑さえ濃厚に漂ってきます*2

――先ほどの話と関連しますが、食べられない人が現実にいます。格差・貧困が広がっている。近著『弾言』(アスペクト社刊)の中で、IT長者のあなたがベーシック・インカム(最低限所得保障制度)を提唱しているのには驚きました(笑い)。

 悪く言えば、捨扶持ということですが、より根源的に言えばまずは無職という職業を認めろということです。そして次に、働くことは義務ではなく権利だということです。ワーキング・プアと呼ばれる人たちは、彼らの能力が生かせるものがないということだと思うのです。

――例えば、月一〇万円を保証するから権利として自分のやりたい仕事を考えろということですか。

 そうですね。目指すものがある人はたとえカネがなくても精神的にプアじゃない。だから、あの本で僕は「自分のゲームを作れ」という言い方をしました。貧困の根絶以上に難しいのは、目指すもの、つまりやる気の欠落だと思います。

 かつては井戸まで水を汲みに行かなくては生きていけなかった。状況が個人を突き動かしていたわけです。やる気がなければ、死ぬだけでした。しかし今は、やる気がなくても生きていくことは何とかできる。底辺といわれる人もネットを使えてしまうでしょ。全体として間違いなく豊かになっているんです。なぜかと言えば、日本人よりも安く物を作るスーパー・ワーキング・プアが存在するからです。難しいのはこの構造です。*3

 「ダンコーガイワールド」の醜悪さについては、hokusyuさんのエントリーに詳しいです。

 過ぎ去ろうとしない過去:「ベーシック・インカムという脅迫」
 http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080506/p1

 こうした主張の醜悪さを批判するどころか、それに便乗しようとする週刊金曜日が終わっているのは当然のこととして、より注目すべき点は、小飼弾のようなゴリゴリの新自由主義者が、日本社会の「豊かさ」の源泉を外国人労働者の存在に見ていることだと思います。これは、「<平和>な日本社会を「新自由主義」または「外国人」から守らなければならない」とする「レイシスト保護主義グループ」の妄想とは対照的な認識であり、したがって、新自由主義者が日本社会の「豊かさ」について正しく理解していることを意味します。つまり、この点において、レイシスト保護主義者よりも新自由主義者の方が、はるかにまともなわけですね。

 私にも話させて:「排外主義としての護憲論――森永卓郎
 http://watashinim.exblog.jp/9727044/

 話を『金曜日』に戻すと、『金曜日』では先号(5/1号)から、「お金があまりない人のためのマネー術」という新シリーズが始まりましたが、『いつのまにかお金がなくなる人のための 今度こそ貯金ができる方法』の著者でもある丸田潔は、今も知人に借金をしているそうなので*4、説得力がないにも程があります。てか、どんだけ読者をナメてんだよ?

 今週号(5/15号)では、なんとコンビニのATMは手数料がかかるから注意しよう!という驚くべき「マネー術」が披露されていました。言うまでもなく、こんな「マネー術」とやらは、マスコミ関係者や政治家でもない限り、誰でも知っているのであって、『金曜日』が想定している読者層の実在そのものが激しく疑われる顕著な例だと思います。それとも実は、これは経営が厳しい『金曜日』編集部による、「貧乏は自己責任だ。その証拠に俺様を見るがよい!」という激白だったりするのでしょうか?もう意味不明すぎなんですが。

 『金曜日』では、そう遠くないうちに、「貧乏人こそ結婚できる!?〜一人暮らし→二人暮らしで脅威の節約術!!!!!!!!!!〜」とか、「コンビニ弁当の容器で野菜を育てるには〜ポストモダン畑をあなたの部屋に♪〜」といった残念な企画が目白押しになる予感がします。なんとなく。そういえば、『金曜日』の「編集ぶろぐ」では、「セクシー大根」*5がお披露目されていましたが・・・。

『金曜日』編集部の「セクシー大根」

追記

 諸事情により一週間ほどブログにアクセスできませんでした。

>コメントをくださっていたみなさま

 本当に大変申し訳ありませんでした。先ほどすべてのコメントにお返事をしましたので、今さらと思われるかもしれませんが、目を通していただければ幸いです。

*1:http://www.fujisan.co.jp/Product/5723/b/234366/

*2:ただし何のためにかは不明。

*3:「人気ブロガーが語る ネットの未来」、『週刊金曜日』、2009年2月27日号、p.52

*4:しかも初回の記事にわざわざそう書いてある。

*5:http://www.kinyobi.co.jp/blog/?p=1963

かんじにルビをふってくれるサービスをつかおう!

 ずっとバタバタしていて、すっかりおそくなってしまいましたが、

  • かんじがニガテなひとにもブログをよんでもらえるようになる(かもしれない)
  • かんじがニガテなひとでもブログがよめるようになる

サービスがあるので、ここでアピールします!

 アダプティブ・テクノロジー
 http://www.adaptive-techs.com/ruby/rubypagelist.html

 このサービスをつかうと、ブログやホームページにある、かんじに、ルビ(ふりがな)をふることができます。もちろんムリョーです。ルビは、「ひらがな」「カタカナ」「Roman」から、えらべます。

 たとえば、dankogaiさんのこんなブログも・・・

before

 ルビふりサービスをつかうと、あら、こんなにステキに。

after

 もちろん、かんじには、オンヨミとかクンヨミがあるので、ルビ(ふりがな)をふっただけで、モンダイがなくなるわけではないし、ニホンゴであることにはかわりないのだけど、とりあえずは、こういうサービスやアイディアがひろがるといいかな、と。だって、マイノリティは、ジンルイがうまれてから、ずーーーーーーーーーーっとマジョリティにあわせてきたわけだから。21セイキにはそういうの、なしでよくない?

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追記

 サービスの紹介が遅れたことと多少関係なくもないのですが、このサービスは登録時(httpsの認証時)に警告メッセージ(「不正な証明書」であるとかなんとか)が出てきます。サイト運営者に問い合わせたところ、「不正な証明書」ではない証明書(Public認証)を得るためには、かなりのショバ代(手数料)を払わなければならず、実質的に非営利で運営しているサービスでは、そこまでなかなか手が回らないということでした。

 というわけで、警告メッセージが出てきても怖くないので、安心してお使いください。

週刊金曜日への投書(ボツ)を公開します

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 以前お知らせした週刊金曜日への投書がボツになったので、ここで公開します。どうして、こんなに早くボツになったことがわかるかというと、北村編集長から直々に不採用のメールが届いたからです。

 週刊金曜日は大昔に*1定期購読をしていたことがあって、そのときには天皇制に関して投書をしたのですが、それは何の通知もなくボツになりました。『金曜日』のサイトにも「掲載の可否についてのお問い合わせはご遠慮ください。掲載させていただく際には、事前に内容確認のご連絡をいたします」と書いてあるので、通常はわざわざ編集長が不採用の連絡をすることはない、と思われます。

 で、この編集長からのメールがまた突っ込みどころ満載なんですが、その前にまず投書(「論争」、16字×72行)の内容を公開しておきます。

拝啓 『金曜日』関係者各位

 朝鮮民主主義人民共和国(以下「北朝鮮」)のロケット発射をめぐる一連の北朝鮮バッシングに対して、『金曜日』がどのように対応するのか興味を持ち、数年ぶりに本誌(四月三日号から四月一七日号まで)を購入した。率直に言って、言論の自由をあからさまに否定する佐藤優氏(『インテリジェンス 武器なき戦争』)や、解釈改憲論のイデオローグである山口二郎氏(「平和基本法」)らを連載陣に据える本誌において、誠実な回答が期待できるとも思えないのだが、以下質問したい。

 (一)四月三日号で北朝鮮バッシング問題(北朝鮮問題ではない)を黙殺したのはなぜか?同号で北朝鮮について触れた記事は、辻元清美氏の「永田町航海記」(連載)を除けば投書(豊森淳氏)のみで、後者は被害者意識にもとづく先進国のナショナリズムを温存した「平和」(構造的暴力)を志向する立場でしかない。戦後も拡大・再生産する日本国家/日本人の加害性と向き合おうとする意志が、本誌にはまるで見られない。

 (二)四月一〇日号の特集「北朝鮮人工衛星”打ち上げ 戦争ごっこに巻き込まれるな」で、北朝鮮への経済制裁の延長・強化、在日朝鮮人への人権侵害、北朝鮮を仮想敵国とする改憲への流れのいずれにも言及していないのはなぜか?「戦争ごっこで利益を得るのは軍需産業と麻生政権だけなので国民は騙されるな」という本誌の主張は、北朝鮮バッシングを支えるメディア(本誌を含む)と国民(本誌の読者を含む)に蔓延する北朝鮮在日朝鮮人への差別意識を、陰謀論と愚民観によって見過ごそうとする、二重・三重にも差別的な欺瞞ではないのか。

 (三)四月一七日号の編集部(山口舞子氏)の記事で、北朝鮮の打ち上げ物体を何の留保もなくミサイルと断定する「識者」の見解を垂れ流しているのはなぜか?すなわち、本誌が「ミサイル関連飛翔体」という政府見解をも超える侮蔑的な対北朝鮮報道をしているのはなぜか?

 上記質問に対する私自身の答えはこうだ。本誌編集部はすでに佐藤優氏に代表される排外主義を身体化しており、それを肯定(黙認ないし擁護)する言説しか生み出せなくなっているのである。イスラエルのリベラルが結局はシオニストでしかないように、「愛国」主義に傾斜する(四月一七日号の「論争」に象徴される)本誌は、もはや左派に値しない。

 本誌の編集部に問いたい。左派が在日外国人(特に朝鮮人)の人権を否定する排外主義や改憲にくみするなら、その存在意義は何なのか?本誌に良心的な記事を寄稿する連載陣に問いたい。あなたの記事は、それが良心的であればあるほど、本誌が上記の路線を強めるためのアリバイ作りにも利用されるが、それでも連載を続けることに迷いはないのか?本誌の読者に問いたい。あなたは本誌に一体何を期待しているのか?

 ・・・そういうわけで、投書が採用されないことは、最初からわかりきっていました。むしろ北村編集長が直接反応してきたことが、どちらかと言えば意外でした。内容は『金曜日』編集長としての公的な見解でしょうから、公開しても問題はないでしょう。5月1日に送られてきたメールです。

」ナ」ユ」テ、ヌ、ホハクサ糕ス、アホ网ヌ、キ、ソ。」

 あー、間違えました。こっちです。

 朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)のロケット発射問題についてご質問をいただきました。

 四項目にわたっていますが、個別の回答は控えさせていただきます。

 ご承知の通り、週刊誌の場合、その週に展開できる記事は分量が限られます。従って、本誌が北朝鮮問題についてどのように報じてきたか、あるいは在日外国人の人権に関していかなる記事を書いてきたかは、ぜひ長期間にわたって検証していただきたいと思います。

 また佐藤優氏や山口二郎氏への批判もありましたが、この両氏に限らず、執筆者と本誌の考え方は必ずしも一致しません。さまざまな見解が載ってこその「雑誌」と考えております。

 というわけで。まずは、id:F1977さんに報告します。『金曜日』は左派として在日朝鮮人の権利をどのように考えているのか教えてくれませんでした。理由としては、

  1. 『金曜日』はもはや左派ではない。
  2. 『金曜日』は、在日朝鮮人の人権について、たいして何も考えていないか、どうでもよいと考えている。

という2つがすぐに思い浮かびます。たぶん両方でしょう。で、これからどうしてくれようか?と考えましたが、とりあえず返事をすることにしました。先ほど北村編集長に送ったメールです*2。反応があればまたブログでお知らせします。

 お返事どうもありがとうございました・・・と申し上げられたらよいのですが、このような非論理的かつ不誠実な説明を私が受け入れたと思われるとしたら非常に迷惑ですので、以下指摘させていただきます。

朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)のロケット発射問題についてご質問をいただきました。

 故意に論点をずらされているようですが、私が問題にしているのは、北朝鮮の「ロケット発射問題」ではなく、北朝鮮のロケット発射をめぐる一連の北朝鮮バッシングについてです。投書にも(『週刊金曜日』が)「北朝鮮バッシング問題(北朝鮮問題ではない)を黙殺したのはなぜか?」とはっきり書いています。

 (1-1)もしも、論点を故意にずらされたのだとすれば、その理由をお聞かせください。

 (1-2)もしも、論点を故意にずらされたのでなければ、私が北朝鮮のロケット発射それ自体を問題にしていると解釈された根拠をお聞かせください。

四項目にわたっていますが、個別の回答は控えさせていただきます。ご承知の通り、週刊誌の場合、その週に展開できる記事は分量が限られます。従って、本誌が北朝鮮問題についてどのように報じてきたか、あるいは在日外国人の人権に関していかなる記事を書いてきたかは、ぜひ長期間にわたって検証していただきたいと思います。

 申し訳ありませんが、正直まったく理解できません。

 (2)こんな説明がまかり通るなら、『週刊新潮』や『週刊プレイボーイ』に在日外国人の人権を尊重する記事が掲載されないのも、「その週に展開できる記事は分量が限られ」るからだということになりますが、そのようにお考えであると解釈してよろしいでしょうか。

 (3)なお、上記は、「本誌が「ミサイル関連飛翔体」という政府見解をも超える侮蔑的な対北朝鮮報道をしているのはなぜか?」という質問に対する答えにはなっていませんので(「ミサイル」も「ロケット」も「人工衛星」も文字数は同じです)、この点に対する説明を求めます。

また佐藤優氏や山口二郎氏への批判もありましたが、この両氏に限らず、執筆者と本誌の考え方は必ずしも一致しません。さまざまな見解が載ってこその「雑誌」と考えております。

 これも論点をずらされているようですが、私は佐藤優氏や山口二郎氏を批判する以上に、そうした人々を連載陣として起用する本誌のあり方を批判しています。

 繰り返しますが、こんな説明がまかり通るなら、本誌に読むべき記事が掲載されたとしても、それは「本誌の考え方は必ずしも一致し」ないことになり、本誌を「長期間にわたって検証」する必要性も認められません。

 (4)この点についてはどうお考えでしょうか。

 以上の四点について、改めて申し入れを行います。どうぞよろしくお願いいたします。

 まあ、わざわざ返信しておいて何だけど、北村編集長は「天皇を戴いた日本は四民平等である」とか言っちゃう人間だからなー。ぶっちゃけ生理的にムリとても自分とは噛み合わないと思われ。

 それにしても、北村編集長も、こんなF1並のスピードで墓穴を掘るような返事をするくらいなら、無視を決め込んでいた方がどう考えても賢明だったと思うのだけど、もしかして墓穴を掘っている自覚がないのだろうか?だとしたら、相当理解不能だ。きっと『金曜日』には批判的な投書をボツにするための専用テンプレがあって、「佐藤優氏や山口二郎氏への批判もありましたが、この両氏に限らず、執筆者と本誌の考え方は必ずしも一致しません。さまざまな見解が載ってこその「雑誌」と考えております」という文章がデフォルトで入っているのだろう。北村編集長はそろそろ人工知能を移植した方がよいと思う。

*1:といっても7年ほど前のことだが、今から振り返ると、やたらと隔世の感がある。

*2:冒頭の社交辞令は省いています。

「対新自由主義戦争」とは何か(2)

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 以下目次。適宜更新します。【5/6 更新済】

  1. はじめに
  2. 「対新自由主義戦争」は普遍的な反・新自由主義ではない
  3. 私たちの食卓の代償。あるいはソマリアの「海賊問題」
  4. 「対新自由主義戦争」という戦争
  5. 「対テロ戦争」の鏡像としての「対新自由主義戦争」
  6. 「対テロ戦争」の触媒としての「対新自由主義戦争」
  7. 改憲へのショートカット
  8. おわりに

5.「対テロ戦争」の鏡像としての「対新自由主義戦争」

 「対新自由主義戦争」がどのようなものであるかということは、「対テロ戦争」との比較において、最もうまく捉えることができると思う。

 「テロとは他者が『われわれ(米国)』に対して行う行為であり、『われわれ(米国)』がどんなに残虐なことを他者に行っても『防衛』や『テロ防止』と呼ばれる」 というノーム・チョムスキーの言葉に倣って言えば、「新自由主義とは他者が『われわれ(日本)』に対して行う行為であり、『われわれ(日本)』がどんなに他者を貧困に陥れても『自由貿易の推進』や『(格差を是正するための)経済支援』と呼ばれる」のである。まさに「「対テロ戦争」の核心には「テロ」の馬鹿げた定義がある」ように、「「対新自由主義戦争」の核心には「新自由主義」の馬鹿げた定義がある」と言える。

 また、「対テロ戦争」が国内の治安(セキュリティ)の強化を訴えることで国民の統制を図ろうとするように、「対新自由主義戦争」は国内の社会保障(ソーシャル・セキュリティ)の強化を打ち出すことで国民の統合を進めようとする。どちらも外国人の人権が眼中にない点で同じである。

「移民国家」なるものが人が足りない時には外国人「移民」でこれを補充し、日本人が不安にならないように徹底的に日本語教育を施すが、ひとたび景気が悪くなって日本人と競合するという妄想が社会を覆ったときにはさっさと帰っていただく、という非常に手前勝手なものであることだけは明らかだろう。

 日朝国交「正常化」と植民地支配責任:「厚生労働省の「日系人」失業者追放策」
 http://kscykscy.exblog.jp/10834111/

 そして、「対テロ戦争」が「われわれ」による物理的・構造的暴力を棚に上げて、「暴力的なテロリスト」を一掃しようとするように、「対新自由主義戦争」も「恩知らずな在日」や「海賊」を容赦なく叩きのめそうとする。麻生首相はソマリアの「海賊」行為を「人類共通の敵」と述べたそうだが、これなどは「テロ」が「人類の敵」であるとしたブッシュの発言そのままである。

 ところで、ここで一つ注意しておかなければならないのは、「われわれ」自身が行使している暴力を棚に上げて「かれら」を非人間化しようとする、こうした歪んだ価値観の浸透は、何も「対テロ戦争」によって突然始まったわけではないということである。それは明治以降の日本人の差別的な朝鮮観の上に培養されたものであり、したがって現代日本のメンタリティに極めて適合的な価値観であるとさえ言える*1

 例えば、近代日本の代表的知識人とされる新渡戸稲造*2は、1906年の朝鮮訪問時に「枯死国朝鮮」という旅行記を書き、朝鮮民族を「彼等は有史前期に属するものなり」とする「ウルトラ停滞史観」*3を臆面なく披露している。中塚明が指摘しているように、日清戦争時に抗日闘争を繰り広げた東学農民軍は、新渡戸にとってはまさに「暴徒」にすぎなかったのであり、こうした朝鮮観が新渡戸ら知識人を始め、日本政府、さらには一般の日本国民にまで蔓延していたことと、日本軍が抗日闘争に参加した(子どもや女性を含む)農民を皆殺しにしたことは、表裏一体の関係にある。 

日本の外交資料館には、『韓国東学党蜂起一件』などのファイルがあり、たくさんの記録、交信された電報などがあります。しかし、朝鮮の抗日の動きは、そのほとんどを「東学党」によるものとし、しかも「東学党」なるものは、「清国兵の使嗾」(清国にそそのかされている)によるものとか、大国(ここではさしずめ清国)に左右されている「事大主義」(弱いものが強いものにしたがっていいなりになっている)だとか、陰で大院君があやつっているとか、あるいは「東学党とか義兵とかいっているが、実は無頼の窮民(貧乏にあえいでいる無法なものども)にすぎない」というものばかりです。*4

 対テロ戦争」であれ「対新自由主義戦争」であれ、その根底にある、「かれら」を徹底的に非人間化し、歴史の客体として貶めようとする思想は、近代以降の日本人の朝鮮観なしには、ここまで無防備に日本社会を覆ってはいなかっただろう。言い換えれば、日本人が差別的な朝鮮観を克服することなく(むしろそれを増幅しさえしながら)ここまで来てしまったことのツケが、自らの暴力と他者の尊厳に対する不感症――DV加害者のメンタリティ――を日本社会にはびこらせ、「対テロ戦争」や「対新自由主義戦争」への抵抗力を奪う結果となって現れているのではないか。

 そして、後述するように、自らのこの差別的な朝鮮観に向き合おうとしない護憲論は、倫理的に間違っているだけでなく、戦略的にも正しくないのである。

6.「対テロ戦争」の触媒としての「対新自由主義戦争」

 ところで、当たり前のことだが、「対新自由主義戦争」と「対テロ戦争」には違うところもある。したがって、「対新自由主義戦争」には反対だが「対テロ戦争」には賛成という立場もありえるし、その逆に「対新自由主義戦争」には賛成だが「対テロ戦争」には反対という立場もありえることになる。

 けれども、「リベラル・左派」の一部が現在取っていると思われる「対新自由主義戦争」には賛成だが「対テロ戦争」には反対という後者の立場は、「対新自由主義戦争」にも「対テロ戦争」にも賛成という排外主義的強硬論に包摂されていく可能性が極めて高い。すでにその兆候はいたるところに散見される。以下に両者の賛否をめぐる4つの立場を見ていこう。

 (1)「対新自由主義戦争」にも「対テロ戦争」にも賛成という立場

 一言でいえば排外主義的強硬論であり、佐藤優を代表的イデオローグとする立場。「格差と戦う保守」や、「国益」を軸とした格差社会反対論を唱え、北朝鮮への武力行使を容認し、ソマリア沖への自衛隊派兵を受け入れる「リベラル・左派」などがここに含まれる。『週刊金曜日』などはもうここに位置づけるのが無難かもしれない。

 (2)「対新自由主義戦争」には反対だが「対テロ戦争」には賛成という立場

 経団連に代表される支配階級・上流階級の立場であるが、「国益」論的価値観と「自己責任」論*5を内面化した国民の中にも、階級を超えてこの立場を取っていた人々は少なくないと思われる。ただし、ここ数年の「国益」を軸とした格差社会反対論の高まりによって、その多くは(1)の立場に合流した(しつつある)と言えるかもしれない。

 (3)「対新自由主義戦争」には賛成だが「対テロ戦争」には反対という立場

 「テロ」の原因は貧困であり、「テロ」を根絶するためにも貧困問題(なぜか対象は国内・国民限定)に取り組まなければならないという立場。現在の「リベラル・左派」の一部が取っていると思われる立場だが、後述するように、いずれ(1)に併呑されていく可能性が高い。

 (4)「対新自由主義戦争」にも「対テロ戦争」にも反対という立場

 「国益」論的価値観による社会の統合・再編成に絶対的に反対する立場。外国人に国民と同等の権利を保障しようとする立場と言ってもよいかもしれない。したがって、本気で改憲を拒否したい人間は、この立場を取る以外にありえない。これついては後述する。

 私は、(3)の立場はいわゆる「トロイの木馬」的なものであり、この立場を取る「リベラル・左派」が確信犯でないとしても、結果として「対新自由主義戦争」を推進することによって「国益」論的価値観を国民一般によりいっそう浸透させ、「対テロ戦争」に反対する世論を弱体化する*6ことにしかならないと思う。

 イラクアフガニスタンへの自衛隊派遣には反対だが、「日本の船を襲う海賊」に対しては、自衛隊が「武力による威嚇又は武力の行使」や集団自衛権の行使をしても構わない(やむをえない)とする立場、あるいは、イラクアフガニスタンソマリア沖に自衛隊を派遣する金があるなら国内の貧困層に分配しろという立場は、「対テロ戦争」への参加が、「国益」の確保と、その帰結である(とされる)国内の社会保障の強化に欠かせないという(1)の立場には、まともに対抗できないだろう。

 エネルギー自給率が4%、食糧自給率が40%にすぎない日本が、今後も「先進国」としての生活水準を維持しようとするなら、海外に展開する日本企業による「途上国」からのさらなる収奪と、国内の外国人労働者からのいっそうの搾取が不可欠である。そして、そのためには、「途上国」の「安定」を確保するための自衛隊の海外展開と、国内の「治安」を維持するための外国人の管理体制の強化が求められることになる。

 新たな在留管理制度についてのQ&A
 http://www.repacp.org/aacp/

 「対新自由主義戦争」によって「対テロ戦争」があたかも克服できるかのような言説(「テロ」の原因は貧困であり、「テロ」を撲滅するためにも貧困問題に取り組まなければならないとする主張)は、そこで取り組まれる「貧困問題」が、あくまでナショナルな視点から捉えられ、世界的な貧困問題を拡大・再生産するものにしかならない点で、欺瞞そのものである。それにもかかわらず(というより、むしろそうであるからこそ、と言うべきだろうか)、こうした主張は今後も繰り返され、(1)の排外主義的強硬論に合流するための地ならしをする役割を担うのではないだろうか。つまり、「対新自由主義戦争」は、「対テロ戦争」の触媒としての機能を果たすことになると思われる。

 さらに言えば、(1)と(2)の間には、「(国民に対しては)そこそこの生活水準を保障する」という形で、近い将来において一定の妥協が(裏で)成立する可能性が高いように思う。けれども、その場合も、(1)はあたかも(2)が敵であるかのように振る舞い続けることによって、大衆の支持を取りつけようとするだろう。

 いずれにせよ、(3)から(1)への集団的な変節現象と、(2)と(1)の手打ちという、今後予測される事態によって、「対新自由主義戦争」にも「対テロ戦争」にも賛成という排外主義的強硬論が、近いうちに世論の多数を占めるようになるかもしれない*7イラクへの自衛隊派遣を横目に「やつらは日本を戦争のできる国にしようとしている!」という周回遅れの情勢認識を示していた『週刊金曜日』は、いまや佐藤優と手を取り合って「前衛」に躍り出たと言える。まさに新(転向)左翼の面目躍如といったところだろうか。

7.改憲へのショートカット

 ここまで見てきたように、いったん「対新自由主義戦争」に賛成してしまえば、そこから「対テロ戦争」を容認するまでは、あと数歩といったところにすぎない。もっとも、(3)の立場を取る「リベラル・左派」は、(1)の立場に転向するまで(のごく短い間)は、その数歩にすぎない違いを自他に向けてことさらにアピールしようとするかもしれない。けれども、「戦争ではテロは解決しない」といったような抽象的な一般論を掲げながら、自らが行使する構造的暴力と、それを可能にする差別的な世界観(その根底には差別的な朝鮮観がある)と具体的に対峙しようとしない「リベラル・左派」は、結局は「国益」という共通項によって、(1)との「共闘」を選ぶようになるのではないだろうか。

 さらに、改憲/護憲(反改憲)という問題から見てみると、「対テロ戦争」を容認する(1)と(2)の立場が改憲を合理化するものであることはもちろん、(3)の立場も申し訳程度に「国益」論的護憲を唱えつつ、いずれ(1)に包摂されていく可能性が高いのだから、実質的な護憲(反改憲)勢力として役に立つとは思えない。自分たちさえ損をしなければ、戦争や侵略をためらう理由がないからで、金光翔さんが「<佐藤優現象>批判」で的確に指摘している通りである。

 そもそも、改憲か護憲(反改憲)か、という問いは、以下の問いに置き直した方がよい。日本国家による、北朝鮮への武力行使を認めるかどうか、という問いだ。

 簡単な話である。仮に日本が北朝鮮と戦争した際、敗戦国となることはありえない。現代の戦争は、湾岸戦争にせよイラク戦争にせよ、アメリカ単独もしくはアメリカを中心とした多国籍軍対小国という、ゾウがアリを踏むような戦争になるのであって、ゾウの側の戦争当事国本国が敗北することは、一〇〇%ありえないからである。大衆は、マスコミの人間ほど馬鹿ではないのだから、そのことは直感的に分かっている。したがって、対北朝鮮攻撃論が「国民的」世論となってしまえば、護憲側に勝ち目は万に一つもない。

 護憲派が、あくまでも仮に、「護憲派ポピュリズム化」や、右へのウィング(これで護憲派が増えるとは全く思えないのだが、あくまでも仮定上)で「護憲派」を増やしたとしても(たとえ、一時的に「改憲反対」が八割くらいになったとしても)、対北朝鮮攻撃論が「国民的」世論ならば、そんな形で増やした層をはじめとした護憲派の多くの人々は「北朝鮮有事」と共に瞬時に改憲に吹っ飛ぶ。自分らに被害が及ぶ可能性が皆無なのだから、誰が見ても解釈上無理のある「護憲」より、「改憲」を選ぶのは当たり前である。

 私にも話させて:「<佐藤優現象>批判」
 http://gskim.blog102.fc2.com/blog-entry-1.html

 対テロ戦争」と対北朝鮮武力行使を容認することが改憲へのショートカットであるように、「対新自由主義戦争」を支持することも改憲へのショートカットを作成する。したがって、改憲への動きを本気でとめたいと思うなら、「国益」論的価値観と、それによる社会の統合・再編成を絶対的に拒否し続けなければならない。

 そして繰り返すが、国益」論の根底にある外国人(特に朝鮮人)に対する日本人の頑なな差別意識を問い、それを執拗に解体しようとし続けるプロセスを抜きにして、護憲(反改憲)派の主張が説得力を持つことはありえない。なぜなら、改憲へのショートカット――「対テロ戦争」や「対新自由主義戦争」を容認するダブルスタンダード――は、詰まるところ「かれら」に対する「われわれ」の差別意識に由来するからである。

 憲法9条が「60年以上にわたり、日本とアジアの人々の信頼関係の礎となってき」たというような護憲派の主張は、「アジアの人々」にとって受け入れがたいものであることはもちろん、当人でさえ本気で信じてはいない類の欺瞞であり*8、「憲法9条は沖縄の敵である」という批判にさえまともに答えられずにいる。

ラミス 「最近は、安保条約をまったく口にしないような、その部分にまったく触れないような護憲運動が存在しているようなんですね。9条が欲しいけれども米軍基地も必要だという、その動機はわからなくはないけれど、それは反戦平和運動とは呼べない。軍事力に守ってもらわないと不安だ、でも戦争をやるのは人に任せるということになりますね」

ラミス 「何年か前、東京で護憲運動をやっている女性が沖縄に来たので、車で案内したことがあります。米軍基地のそばに住宅が密集している場所を通ったんですが、それを窓から見た彼女は「私はあんなところには住めない」と言った。これは、非常に興味深い発言ですよね」

 「翻訳するならば、「私は基地のそばに住むなんていうことが我慢できないほど敏感で繊細な平和主義者である」ということ。でも、それを裏返せば、「どうしてあんなところに住めるの?」という、実際に住んでいる人たちへの軽蔑があるんだと思いませんか」

 「だけど、そもそもどうしてそこに基地があるかというと、日米安保があるからですよね。それを結んだのは沖縄の人たちじゃない。誰も沖縄の人に「安保条約を結んでいいか」と聞いたことはありません。すべてヤマトの人たちが決めたこと。だから安保の問題、基地の問題は、沖縄問題ではなくて日本の問題なんです」

 マガジン9条:「沖縄と9条と日米安保
 http://www.magazine9.jp/interv/lummis/lummis1.php

 もっとも、「憲法9条を持つ日本(人)」を理想化する護憲派の白々しい言説は、アジアからの軽蔑を買い、大衆をげんなりさせていただけでなく、実は当の護憲派にとってもたいして魅力的なものではなかったように思われる。自らの加害性に向き合わない護憲論が、ただでさえ欺瞞的な護憲派の「知性」をいっそう弛緩させる役割を果たしてきたことも、指摘しておかなければならないだろう。要するに、護憲派の多くは、実際のところ自分たちの唱える護憲論の薄っぺらさにうんざりしていたのであり、それが「変化」を求める欲求と相まって、<佐藤優現象>を下支えしているように思う*9

 さらに言えば、「リベラル・左派」の中には、もっぱら「自己実現」や自己満足のために平和や人権を謳っており、「かれら」の平和と人権を守ることなど心の底ではどうでもよいと考えている連中が決して少なくないことも、総体としての護憲(反改憲)派を腐らせている要因であると思う。そうした人々が平和や人権を語るのは、もっぱら理想的な自己イメージを自他に承認させるためであり、だからこそ、そうした自己イメージを容赦なく粉砕するようなマイノリティの鋭い*10問題提起にはまともに向き合おうとしないのである*11

8.おわりに

 以上、「対新自由主義戦争」について、とりわけ「対テロ戦争」との関連から、その特徴とそれがもたらす結果などを大まかに論じてきた。そして、改憲を拒否するためには、両者の枠組そのものを拒否し、自らの差別意識と謙虚に向かい合い、その飽くなき解体を続けようとする護憲(反改憲)論こそが、日本のリベラル・左派に求められる、ということを述べた。

 日本人マジョリティが自らの加害性を直視せずにすむ護憲(反改憲)論は、迫り来る改憲の歯止めにならないどころか、「国益」を軸とした社会の再編成を促し、改憲へのショートカットを作成しようとする点で、有害ですらある。改憲を本気で阻止しようと思うなら、改憲という論点を持ち出すまでもなく、外国人の人権を否定して恥じない「国益」論的価値観を根底から否定していかなければならない。

9.追記

 本文で取りこぼしたところをいくつか補足しておきたい。

(A)先進国の国民による越境プロジェクトとしての「対新自由主義戦争」

 新自由主義が「先進国」の支配層による国家を超えたプロジェクトとして推進されてきたように、「対新自由主義戦争」も先進国の国民による越境的なプロジェクトとして進められていく可能性が高い。金光翔さんが「レイシスト的保護主義グループ」と呼ぶ人々による「オルター・グローバリゼーション」(笑)である。

 私は、こうしたグループを、便宜上、「レイシスト保護主義グループ」と呼んでおきたい。それは、レイシスト的な表象に基づき、経済的保護主義を主張するグループである。昔風の、「社会排外主義」と呼ばれるものに近い。このグループは、民主党の支持勢力とかなり重なる、かつて「抵抗勢力」と呼ばれた業界団体や利権団体の支持を得ていると思われる。中心人物として、佐藤優山口二郎田中康夫中島岳志萱野稔人といった人物を挙げることができよう。

 そして、このグループは、韓国の同質の問題を含む運動体との「連帯」を表明したり、自分たちに追従する在日朝鮮人をグループに組み込んだりすることで、 自身の排外主義的主張への批判を回避しようとしていくだろう。

 私にも話させて:レイシスト保護主義グループの成立(1)
 http://watashinim.exblog.jp/9650470/

 あとは何となく「ホワイトバンド」を買ったり、フェアトレードを適当に持ち上げたりして、お茶を濁してみせるかもしれない。

(B)「シビリアンコントロール」を争点化する「リベラル・左派」のどうしようもなさ

 ところで、『週刊金曜日』が「護憲派のタブー」である(らしい)日米安保について積極的に語っているのは、ヤマトンチュが沖縄に米軍基地を押しつけているというダグラス・ラミスらの指摘に恥じ入ったからではなく、その逆に、「われわれ」の(領土であるところの)沖縄に米国が基地を押しつけている!許せない!という、加害者の被害妄想に憑りつかれているからだと思われる。ただし、沖縄の中にもこうした勢力とあえて癒着しようという動き(<佐藤優現象>)が見られることから、今後「リベラル・左派」に支配的な国防論は民主党路線と重なっていく可能性が高い。

 『週刊金曜日』も、今後は、米国からの相対的「自立」と、自衛隊シビリアンコントロール文民統制)を主要な争点に掲げることで、結局は米軍と自衛隊の一体化*12や、「厳格」なシビリアンコントロールにもとづく自衛隊の海外展開の必要性を主張するようになると思われる。

 あたかもシビリアンコントロールの徹底こそが最大の争点であるかのような、自衛隊をめぐるここ数年の「リベラル・左派」の議論は、シビリアンコントロールに反対しない右派および保守派への併呑を意味する点で、「リベラル・左派」の全面降伏と言ってよい。そもそも、シビリアンコントロールの不要性を唱える右派や保守派など、どこにいるのだろうか?かりにそうした勢力が存在するとしても、かれらが世論に与える影響など、無視できる程度にすぎない。シビリアンコントロールを争点化することによる右派や保守派との共闘は、有害である以前に無意味である。

 シビリアンコントロールを最大の論点として打ち出したがる「リベラル・左派」には、日本の侵略戦争の責任を軍部の暴走として片付けようとする本音が透けて見える。おそらく、朝鮮に対する植民地支配は特に問題なく【5/7 訂正】、現在にいたるまでそれを正当化しようとしている一般の日本国民は、戦争の犠牲者だった・・・ということにしておきたいのだろう。こんな甘えた認識で改憲に対抗できると思っているのだろうか?それとも端から対抗する気などないのだろうか?

*1:もちろん、明治以前の日本のアイヌや沖縄への侵略にその起源を求めることもできるだろうが、現代日本のあり方を大きく規定している日本の近代化が朝鮮侵略と同時に始まっていることは、いくら強調してもしすぎることはないと思う。

*2:福沢諭吉は論外

*3:田中慎一、「研究ノート 新渡戸稲造について」、『北大百年史編集ニュース』、第九号、1979年6月

*4:中塚明、『現代日本歴史認識―その自覚せざる欠落を問う』、高文研、2007年、pp.221-222

*5:言うまでもなく、「自己責任」論は「国益」論的価値観と極めて親和性が高い。

*6:もっとも、これ以上弱体化する余地があるというのは空恐ろしい話だが。

*7:すでにそうなっているという話もある。

*8:ただし、信じていることを信じている(信じようとはしている)かもしれない。

*9:もちろん、<佐藤優現象>を支える「論理」も辟易するほど薄っぺらなものだが、どうせ同じように薄っぺらなのだから、そうした連中が「時代遅れの左翼」を廃業して「今をときめく人民戦線」に飛びつこうとするのは別に不思議なことではない。

*10:正確には、マイノリティが鋭いというより、マジョリティが鈍いと言うべきだろうと思うが。

*11:マイノリティの主体性を認めようとしないことも同様。個人的体験の範囲でも、実はこうした「リベラル・左派」は、(理想の自己像の構築に不可欠な)マイノリティを必要とせざるをえないことの裏返しとして、(理想の自己像を突き崩しかねない)マイノリティの存在そのものを心の底では憎んでいるのではないか、と感じることさえある。

*12:「自立」に必要な「戦力」増強と米軍との協力は矛盾しないとかなんとか

「対新自由主義戦争」とは何か(1)

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 以下目次。適宜更新します。【5/6 更新済】

  1. はじめに
  2. 「対新自由主義戦争」は普遍的な反・新自由主義ではない
  3. 私たちの食卓の代償。あるいはソマリアの「海賊問題」
  4. 「対新自由主義戦争」という戦争
  5. 「対テロ戦争」の鏡像としての「対新自由主義戦争」
  6. 「対テロ戦争」の触媒としての「対新自由主義戦争」
  7. 改憲へのショートカット
  8. おわりに

1.はじめに

 前回の記事に出てきた「対新自由主義戦争」という現象について説明していきたい。始めに断っておくが、私は新自由主義には明確に反対だし、いわゆる反貧困には強い共感を持っている。だから、ここでいう「対新自由主義戦争」とは、「反・新自由主義」あるいは「反・貧困」の立場に立つ運動体そのものを指すわけではない。

 ただし、後述するように、反・新自由主義あるいは反・貧困運動を総体的に捉えるとき、部分的に「対新自由主義戦争」への変質あるいは変質の衝動が色濃く見られることも、また否定できない。もちろん、反・新自由主義あるいは反・貧困運動に関わっている人たちの中には、そうした流れを厳しく批判し、「対新自由主義戦争」への参加を拒む人々もいる。けれども、そうした運動に関わるより多くの人々と、運動に直接関わっていない世間一般の人々は、「対新自由主義戦争」を忌避しようとはせず、むしろ自ら進んでそれに呑み込まれようとしているように思う。

2.「対新自由主義戦争」は普遍的な反・新自由主義ではない

 「対新自由主義戦争」を一言で説明すれば、それは反・新自由主義あるいは反・貧困運動のダブルスタンダード版であると言える。それがダブルスタンダードであるかどうかは、以下の2点によって簡単に判定できる。

 第一に、もしも、あなたが新自由主義に普遍的に反対しているなら、日本国内の貧困および格差社会という新自由主義的現象に対してだけでなく、日本が世界(特に第三世界)に押しつけている新自由主義およびその結果として「先進国」「途上国」間に生じている気の遠くなるような格差に対しても、それをなくすよう主張しなければならない。第二に、もしも、あなたが反貧困を普遍的に訴えようとするなら、日本人の貧困だけでなく、(平均的に見て日本人よりもはるかに劣悪な生存状況に置かれている)在日外国人の貧困にも目を向けなければならない。

 上記の2点を満たさない運動は、一見それが反・新自由主義あるいは反・貧困を掲げており、また当事者や第三者にそのように受け取られるものだとしても、普遍的に反・新自由主義あるいは反・貧困を訴えているわけではない。そうした運動は、「われわれ」にとって不都合な新自由主義あるいは貧困にのみ反対し、「われわれ」にとって都合のよいそれに反対しようとしない点で、疑いようもなくダブルスタンダードである。

 これは、倫理観の問題というよりも、単なる論理の帰結にすぎない。言い換えれば、もしも、あなたが日本国内にはびこる新自由主義に反対する一方で、日本が世界にはびこらせている新自由主義には沈黙ないし賛同していたり、国民のためのセーフティーネットの充実化を主張しながら、元よりセーフティーネットから排除されている在日外国人に対して国民と対等な権利を認めようとしないなら、それは普遍的な反・新自由主義あるいは反・貧困ではなく、単にご都合主義の「反・新自由主義」あるいは「反・貧困」を唱えているだけなのである。

 以上の理由と後で述べる理由から、このダブルスタンダード版の「反・新自由主義」あるいは「反・貧困」を、私は「対新自由主義戦争」と名づけることにする。なぜ「戦争」という表現を用いているかは後述する。

3.私たちの食卓の代償。あるいはソマリアの「海賊問題」

 「対新自由主義戦争」のダブルスタンダードぶりを実証する具体例はありふれているが、ここではソマリアの「海賊対策」の問題を例にとって考えてみたい。

 小林アツシさんが指摘しているように、ソマリアの「海賊」問題とは、海賊ではなく「私たちの」問題である。1991年から「内戦」*1が続いているソマリアの海域では、国内の混乱に乗じて、欧米や日本の漁船が大規模な密漁(違法)や廃棄物の投棄(違法)を繰り返していた。まさに、私たちの食卓に安価なマグロやエビが並ぶことの代償として、ソマリアの漁民は収入源を失い、生き延びるために「海賊」になったのである。

夜、ソマリアの海は、たくさんの漁船団の灯火によって「マンハッタンの夜景のように見える」とは、ソマリアの漁業専門家の言葉である。これらの船団の国旗は、EU諸国と米国、日本のものだ。
―中略――――
海賊たちは、日本を含む先進国がそれまで乱獲してきた漁業資源の代金回収と、廃棄物投棄の迷惑料を暴力的な方法でやっているともいえる。

 あつこばのブログ:「海賊とは?」
 http://atsukoba.seesaa.net/article/113146297.html

 そして、ひとたび「海賊ビジネス」が成立した以上、あるいは「海賊ビジネス」を立ち上げてそこから利益を生むために、ハートセキュリティ社のような民間軍事会社が「海賊」に研修をする、といったようなことが行われるようになる。

 あつこばのブログ:「「海賊は元漁民ではない」という主張」
 http://atsukoba.seesaa.net/article/114158332.html

 つまり、ソマリアの「海賊問題」とは、グローバリゼーションの問題であり、私たちがかれらに押しつけている新自由主義の問題である。私たちは「かれらの海賊問題」を裁くことはできない。なぜなら、かれらを「海賊」に仕立て上げている自覚なき責任者である「私たちの海賊問題」こそが、真に裁かれるべき対象だからである。

4.「対新自由主義戦争」という戦争

 2009年3月14日、日本政府はソマリア沖に海上自衛隊を派遣した。伊勢崎賢治は、ソマリアへの自衛隊派遣を国民の圧倒的多数が支持していることについて、次のように語っている。

 今、当たり前のように、メディアや政治家は、「日本の船を襲う海賊だから取り締まるのは当たり前。我が国の国益のために自衛隊が出て行くのは当然」といった論調です。そして世論調査によると、9割の人が今回の派遣については、「賛成」もしくは「海賊だから仕方ない」と思っているそうです。一方で、憲法9条改憲についての世論調査では、6割の人が9条は守った方がいいという数字が出ていると聞きます。ということは、9条護憲だけど、今回のソマリア沖の海自の派遣には賛成、という人がかなりの数、いるということになります。そのような人は、いったいどういう考えなのか。私にとって、国家主義的なゴリゴリの改憲派よりも意識が遠い人たちに感じます。

 マガジン9条:「9条は日本人には”もったいない”」
 http://www.magazine9.jp/other/isezaki/

 けれども、「護憲」の立場に立ちながら「国益」のための自衛隊海外派遣を容認することと、「反・新自由主義」あるいは「反・貧困」の立場に立ちながら「国益」のための新自由主義政策を是認することは、いまや圧倒的多数の国民の意識の中にむしろ矛盾なく同居しているのではないだろうか。反・新自由主義あるいは反・貧困を普遍的に訴える立場から、自衛隊ソマリア派遣に反対しようとする声は、運動内に一体どれだけ存在したのだろう。

 国益」を軸にした「反・新自由主義」あるいは「反・貧困」は、「先進国」または日本人としての生活水準を維持し、「先進国」「途上国」間または日本人外国人間の格差を永久的に固定化するための暴力(構造的暴力を含む)を例外なく必要とする。そして、まさに絶えざる暴力を必要とする点で、「国益」を軸にした「反・新自由主義」あるいは「反・貧困」は、「対新自由主義戦争」という「戦争」として名指すことが相応しいと考える。

 さらに、既存の反・新自由主義あるいは反・貧困運動の中には、もとより「国益」論的価値観*2を自明視するものから、当初は批判していた「国益」論的価値観に次第に(あるいは急激に)傾斜し、それを合理化しようとするものまであり、すでに――あるいは将来的に――「対新自由主義戦争」を担っている(担っていく)動きがある。つまり、(自覚的であれ無自覚的であれ)国民さえ貧困でなければそれでよいとする排外主義としての「反・新自由主義」あるいは「反・貧困」を唱える立場である。

 (後半に続く)

*1:「内戦」の背後には例によって「先進主義諸国」がいるのだが、勉強不足のため現時点ではうまく論じられない。

*2:「日本人がこんなに貧困であってよいはずがない!(アフリカやアジアじゃあるまいし)」というような「素朴」なナショナリズムなどがその典型

「対新自由主義戦争」の始まり

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>前回のエントリーにコメントをくださっているみなさまへ
現在コメント数がとても多くなっているので、たいへん申し訳ありませんが、お返事は連休明けくらいまでお待ちください。

 本日発売の『週刊金曜日』(5/1号)を立ち読みしようと本屋に寄ったところ、麻原彰晃昭和天皇の写真を表紙一面に掲げた真っ黒な雑誌が置かれていた。近寄ってみると(いつもは白かったはずの)週刊金曜日』だった。どうやら『金曜日』は4月29日を「慶賀」するに当たって単に日の丸を掲げる程度では生ぬるいと思ったらしい。一瞬、これを立ち読みするくらいなら、隣にある『WiLL』を立ち読みする方が、まだしも拷問度が低いのではないかと思ったが、気を取りなおして読むことにした。定期購読者の中にはこれで多大な精神的苦痛を被った人もいるだろうから、この際『金曜日』を集団提訴してはどうだろう?

 それでは、『金曜日』が「今週号の注目記事」として紹介している下記の記事を見ていこう。

 今週号の『金曜日』は、上の記事を筆頭に、「憲法特集号」という枠で、天皇制に関する記事を大量に*1掲載している。そして、表紙を見れば当然の帰結でしかないが、そこには、日本の植民地支配・侵略責任を問い、天皇制を自己批判的に解体していくことで、日本人としての責任を主体的に果たしていこうとする姿勢はまるで見られない*2

 『金曜日』編集部がまとめている上記の記事は、要約すれば以下のようなものになる*3

  1. 日本は米国の「属国」であり、それを直視しようとしない親米右翼のナショナリズムは「ねじれ」ている。
  2. 昭和天皇の罪は、「二重外交」によって日米安保条約を締結させて、日本を米国の「属国」にしたことである。
  3. 沖縄からすべての米軍基地を撤退させるまでは、日本人にとって「戦後」は訪れない。

 『金曜日』のメッセージはあまりにも明白である。つまり、いまや「リベラル・左派」こそが「正しい」ナショナリズムを体現することで、「賢い」保守と手を取り合い、「おバカな」右翼を導きつつ、「凡庸な」大衆どもを動員して、国民戦線を主導することができる(するべきである)、ということだ。在日外国人は一言でいえば人間として見なされていない。

 「日本は米国の「属国」であり、それを直視しようとしない親米右翼のナショナリズムは「ねじれ」ている」という1の指摘は、『金曜日』向けに言い換えれば、「日本はアジア諸国にとって今なお加害国であり、それを直視しようとしない「リベラル・左派」の倫理観こそが完全にねじ切れている」と言える。

 日本を米国の「属国」にした罪においてのみ天皇を批判するという2の言説は、あまりにも醜悪にすぎる。豊下楢彦は、日米安保は当時のフィリピン・米間の条約「以下」のひどさであり、日本を「植民地状態」にするものだと述べている。日本が朝鮮を文字通り植民地支配し、フィリピンを含むアジア諸国を文字通り侵略したことは何の問題もないが、米国が日本をフィリピン「ごとき」「以下」の「植民地状態」にすることには我慢ができないとでも言うのだろうか?ちなみに、フィリピンは、1991年に米軍基地使用延長のための新軍事基地協定の批准を否決し、翌年には米軍を完全に撤退させている。普通に考えれば、日本「ごとき」はフィリピンに遠く及ばない、ということになるはずなのだが。

 豊下はさらに、米国が日本なしでは朝鮮戦争を遂行できなかったにもかかわらず、そのことを対等な日米安保を締結するための「外交カード」に利用できなかったとして、当時の日本政府の対応を非難している。実際には、吉田茂内閣は朝鮮戦争への全面協力を米国に誓うことでサンフランシスコ単独講和条約の調印を進めたわけで、「外交カード」とやらはフル稼働していたし、「朝鮮戦争による日本の特需収入は一九五〇年下半期に早くも一億ドルを越え、五一年五億七千万ドル、五二年八億三千万ドル(この年の日本の輸出総額の実に四一パーセント)、五三年に八億一千万ドルに達し、日本経済の骨格を根本的に変貌させた」*4。一方で、日本政府は、「南朝鮮と日本の軍事基地化反対、日本での武器製造・輸送反対」をスローガンに反戦運動を展開した在日朝鮮人を徹底的に弾圧し、殺害、強制送還、逮捕を繰り返した。豊下の言い分は、論理的にも倫理的にも、これ以上ないほど破綻している。

 「沖縄からすべての米軍基地を撤退させるまでは、日本人にとって「戦後」は訪れない」という3の主張にいたっては、戦後の日本/日本人の「主体意識」を日米関係における被害者意識によってのみ立ち上げようとする、あまりにも卑劣な欺瞞が炸裂している。まるで、DV加害者が、DV行為を続けながら、「俺様の生存権を脅かす死刑が廃止されるまでは、俺様にとって「安全な場所」はない」と息巻いているようなものだ。

 ところで、同号には小森陽一も記事(「「国体護持を抱きしめた」戦後という時代 昭和天皇と国民の無責任」)を寄稿しているが、呆れたことに小森は、日本国民が昭和天皇の戦争責任を問わないことで自らの戦争責任・戦後責任に向き合うことを回避する構造は、米国によって作られたものであるとしている。どうやら、日本/日本人が戦争責任・戦後責任を果たしたり、天皇制を廃止したりできずにいるのは、米国が日本/日本人の戦争責任・戦後責任を果たしたり、天皇制を廃止したりしてくれなかったからだとでも言いたいらしい。小森が米国下院の「慰安婦」非難決議をどう考えているかは知らないが、「昭和天皇と国民の無責任」の「責任」を米国に転嫁する小森の言説が無責任でないなら、この世に無責任な人間など一人もいなくなるだろう。

 それにしても、こうした記事に輪をかけてひどいのが、『金曜日』の北村編集長の編集後記である。編集後記の完全版はブログで読むことができるので、以下紹介する。

「親米の民族派」という大いなる矛盾

 あの瞬間、「天皇は神ではなくなった」と実感した。むろん、私は皇室制度支持派ではないが、人知を超えた世界の非存在を実証出来ない以上、「神」を信じる人を全否定することはできない。「天皇=神」論者についても同様だ。だが、輸血を受けた時点で、昭和天皇は「人間」になったと断定せざるをえない。「神」の体にメスを入れ、さらには複数の人間の血液を注ぐことなどありえないからだ。

 いやー、「私は皇室制度支持派ではない」なんて、いきなりご冗談を。あなたが「天皇制擁護論を主張して右翼の歓心を買っていた」ことは、もうネタが上がってるんですよ。しかも、『チャンネル桜』ってどこかで聞いたことがあると思ってたら、「在日特権を許さない市民の会」がよく出演してる排外主義者ご用達の「独立メディア」じゃないですか。

 そして、「人知を超えた世界の非存在を実証出来ない以上」、「天皇=神」「を信じる人を全否定することはできない」って、普通に笑えるんですが。やっぱり『金曜日』はカルト雑誌だったんですね。で、昭和天皇の「容態報道」に接したときのあなたの感想が、「輸血を受けた時点で、昭和天皇は「人間」になったと断定せざるをえない」ですか。「断定せざるをえない」って、すごく残念そうに聞こえるんですが、そうですか、残念だったんですか。

 それ以降、昭和天皇の「政治責任」がより強く問われたのは当然だろう。人間が「神」を裁くことはできなくても、人間である「大元帥」を裁くことは可能だからだ。一方で、平成の天皇が自ら象徴天皇制を強調するのも必然の流れである。憲法は、「人間宣言」をした天皇を象徴としている。そして、多くの市民・国民がそれを支持している。天皇制維持のためにも、天皇は「神」であってはならないのだ。

 政治責任をカッコで括る意味がわかりません。というか、昭和天皇の罪を生前に強く追及できなかった理由が、天皇が「輸血を受け」る前で、まだ「神」だったかもしれないから・・・って、こんな説明で読者が一人でも納得すると思っているなら、あなたこそ本格的に神がかってるんですが。それはともかく、「右翼だけに自身の天皇制擁護の考えを説明するのではなく、天皇制反対論者がほとんどと思われる読者にきちんと説明しなければいけないだろう」というelectric_heelさんのまっとうな要求は、「きちんと」という部分を除いては、ついに実現したみたいですね。

 実は、反天皇制を掲げる側にとってこの事態は厄介である。昭和天皇がすべての戦争責任を負うことで、「日本の伝統と文化を継承する皇室制度」は無傷ですむからだ。事実、平成の天皇が「平和主義者」であることへの異論はほとんど出てこない。結婚50周年を記念しての「お言葉」にも、「軍服を着ない天皇こそ真の天皇である」というメッセージが色濃く滲み出ていた。

  1. 反天皇制を掲げる側」・・・って、誰のこと?
  2. 昭和天皇がすべての戦争責任を負う」・・・って、何一つ負わずに死んだじゃん。
  3. 天皇制の廃止を目指さない「反天皇制」って何?戦争の違法化を目指さない『金曜日』の「反戦論」みたいなもの?それはもう反天皇制でも反戦論でも何でもないんですが。
  4. 「平成の天皇が「平和主義者」であることへの異論はほとんど出てこない」って・・・そんなバカバカしい主張にわざわざ「異論」を唱える人もいないと思うんですが。「軍人が「平和主義者」である」という命題そのものがおかしいのと同じ。
  5. 「「軍服を着ない天皇こそ真の天皇である」というメッセージ」・・・えーと、もうスルーで。

 しかし、ここに「米国」という要素を持ち込むと、天皇制は別の矛盾にさらされる。本誌今週号で特集したように、政治家・昭和天皇が事実上、日本の米国属国化を認めたことは、最近の研究から明らかである。そして、米国の支配下におかれることで、当然のことながら「日本古来の伝統と文化」は大きく揺らいだ。
 評価は別にして、「天皇を戴いた日本は四民平等である」というのが皇室制の柱の一つだろう。どう考えても、米国のような優勝劣敗思想の国とは相容れない。むろん、新自由主義の導入など、到底、許されるものではないはずだ。「情けは人のためならず」が、本来の意味とは真逆に解釈される社会、それがアメリカナイズされた今の日本である。

 「天皇を戴いた日本は四民平等である」
 「天皇を戴いた日本は四民平等である」
 「天皇を戴いた日本は四民平等である」 

 ・・・北村編集長のコラムを支離滅裂なものとして笑い飛ばすのは、そろそろやめた方がよいのかもしれない。要するに、こういうことだろう。新自由主義と戦うためにはすべてを利用する。対テロ戦争」ならぬ「対新自由主義戦争」というわけだ。「戦争」なのだから、論理も倫理も、ましてや「やつら」(=外国人)の人権など、どうでもよいのである。むしろ、「やつら」の人権を効率よく侵害すればするほど、「戦果」が上がってめでたいということにさえなる。

 昭和天皇が問われる政治責任は、「戦争」だけではない。皮肉な表現を用いれば、「皇室制度のすっぽり抜けたところに米国という権力・権威を置いた」ことにもあるのだ。新憲法成立により象徴天皇制は残ったが、爾来、この国は、まったく風俗、慣習の異なる国・米国に隷属することとなった。「親米の民族派」がなぜ存在するのか、私には大いなる謎である。(北村肇)

 「対新自由主義戦争」という文脈でコラムを読み返してみると、その支離滅裂さには失笑するどころか戦慄を覚える。「対新自由主義戦争」の前線を担う『金曜日』を、これまで以上に徹底的に批判していかなければならない。

*1:ざっと見た限り7本

*2:高橋哲哉はこうしたことを主張し続けているので、『金曜日』誌上ではあまり見かけなくなった(ように思う)。「ように思う」というのは、ここ数年『金曜日』を読んでいなかったからで、あまり正確ではないかもしれない。

*3:もっとも、記憶力があまりよくないので、重要な点が抜けているかもしれない。

*4:梶村秀樹、『朝鮮史 その発展』、世界歴史叢書、2007年、p.273