「対新自由主義戦争」の始まり

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 本日発売の『週刊金曜日』(5/1号)を立ち読みしようと本屋に寄ったところ、麻原彰晃昭和天皇の写真を表紙一面に掲げた真っ黒な雑誌が置かれていた。近寄ってみると(いつもは白かったはずの)週刊金曜日』だった。どうやら『金曜日』は4月29日を「慶賀」するに当たって単に日の丸を掲げる程度では生ぬるいと思ったらしい。一瞬、これを立ち読みするくらいなら、隣にある『WiLL』を立ち読みする方が、まだしも拷問度が低いのではないかと思ったが、気を取りなおして読むことにした。定期購読者の中にはこれで多大な精神的苦痛を被った人もいるだろうから、この際『金曜日』を集団提訴してはどうだろう?

 それでは、『金曜日』が「今週号の注目記事」として紹介している下記の記事を見ていこう。

 今週号の『金曜日』は、上の記事を筆頭に、「憲法特集号」という枠で、天皇制に関する記事を大量に*1掲載している。そして、表紙を見れば当然の帰結でしかないが、そこには、日本の植民地支配・侵略責任を問い、天皇制を自己批判的に解体していくことで、日本人としての責任を主体的に果たしていこうとする姿勢はまるで見られない*2

 『金曜日』編集部がまとめている上記の記事は、要約すれば以下のようなものになる*3

  1. 日本は米国の「属国」であり、それを直視しようとしない親米右翼のナショナリズムは「ねじれ」ている。
  2. 昭和天皇の罪は、「二重外交」によって日米安保条約を締結させて、日本を米国の「属国」にしたことである。
  3. 沖縄からすべての米軍基地を撤退させるまでは、日本人にとって「戦後」は訪れない。

 『金曜日』のメッセージはあまりにも明白である。つまり、いまや「リベラル・左派」こそが「正しい」ナショナリズムを体現することで、「賢い」保守と手を取り合い、「おバカな」右翼を導きつつ、「凡庸な」大衆どもを動員して、国民戦線を主導することができる(するべきである)、ということだ。在日外国人は一言でいえば人間として見なされていない。

 「日本は米国の「属国」であり、それを直視しようとしない親米右翼のナショナリズムは「ねじれ」ている」という1の指摘は、『金曜日』向けに言い換えれば、「日本はアジア諸国にとって今なお加害国であり、それを直視しようとしない「リベラル・左派」の倫理観こそが完全にねじ切れている」と言える。

 日本を米国の「属国」にした罪においてのみ天皇を批判するという2の言説は、あまりにも醜悪にすぎる。豊下楢彦は、日米安保は当時のフィリピン・米間の条約「以下」のひどさであり、日本を「植民地状態」にするものだと述べている。日本が朝鮮を文字通り植民地支配し、フィリピンを含むアジア諸国を文字通り侵略したことは何の問題もないが、米国が日本をフィリピン「ごとき」「以下」の「植民地状態」にすることには我慢ができないとでも言うのだろうか?ちなみに、フィリピンは、1991年に米軍基地使用延長のための新軍事基地協定の批准を否決し、翌年には米軍を完全に撤退させている。普通に考えれば、日本「ごとき」はフィリピンに遠く及ばない、ということになるはずなのだが。

 豊下はさらに、米国が日本なしでは朝鮮戦争を遂行できなかったにもかかわらず、そのことを対等な日米安保を締結するための「外交カード」に利用できなかったとして、当時の日本政府の対応を非難している。実際には、吉田茂内閣は朝鮮戦争への全面協力を米国に誓うことでサンフランシスコ単独講和条約の調印を進めたわけで、「外交カード」とやらはフル稼働していたし、「朝鮮戦争による日本の特需収入は一九五〇年下半期に早くも一億ドルを越え、五一年五億七千万ドル、五二年八億三千万ドル(この年の日本の輸出総額の実に四一パーセント)、五三年に八億一千万ドルに達し、日本経済の骨格を根本的に変貌させた」*4。一方で、日本政府は、「南朝鮮と日本の軍事基地化反対、日本での武器製造・輸送反対」をスローガンに反戦運動を展開した在日朝鮮人を徹底的に弾圧し、殺害、強制送還、逮捕を繰り返した。豊下の言い分は、論理的にも倫理的にも、これ以上ないほど破綻している。

 「沖縄からすべての米軍基地を撤退させるまでは、日本人にとって「戦後」は訪れない」という3の主張にいたっては、戦後の日本/日本人の「主体意識」を日米関係における被害者意識によってのみ立ち上げようとする、あまりにも卑劣な欺瞞が炸裂している。まるで、DV加害者が、DV行為を続けながら、「俺様の生存権を脅かす死刑が廃止されるまでは、俺様にとって「安全な場所」はない」と息巻いているようなものだ。

 ところで、同号には小森陽一も記事(「「国体護持を抱きしめた」戦後という時代 昭和天皇と国民の無責任」)を寄稿しているが、呆れたことに小森は、日本国民が昭和天皇の戦争責任を問わないことで自らの戦争責任・戦後責任に向き合うことを回避する構造は、米国によって作られたものであるとしている。どうやら、日本/日本人が戦争責任・戦後責任を果たしたり、天皇制を廃止したりできずにいるのは、米国が日本/日本人の戦争責任・戦後責任を果たしたり、天皇制を廃止したりしてくれなかったからだとでも言いたいらしい。小森が米国下院の「慰安婦」非難決議をどう考えているかは知らないが、「昭和天皇と国民の無責任」の「責任」を米国に転嫁する小森の言説が無責任でないなら、この世に無責任な人間など一人もいなくなるだろう。

 それにしても、こうした記事に輪をかけてひどいのが、『金曜日』の北村編集長の編集後記である。編集後記の完全版はブログで読むことができるので、以下紹介する。

「親米の民族派」という大いなる矛盾

 あの瞬間、「天皇は神ではなくなった」と実感した。むろん、私は皇室制度支持派ではないが、人知を超えた世界の非存在を実証出来ない以上、「神」を信じる人を全否定することはできない。「天皇=神」論者についても同様だ。だが、輸血を受けた時点で、昭和天皇は「人間」になったと断定せざるをえない。「神」の体にメスを入れ、さらには複数の人間の血液を注ぐことなどありえないからだ。

 いやー、「私は皇室制度支持派ではない」なんて、いきなりご冗談を。あなたが「天皇制擁護論を主張して右翼の歓心を買っていた」ことは、もうネタが上がってるんですよ。しかも、『チャンネル桜』ってどこかで聞いたことがあると思ってたら、「在日特権を許さない市民の会」がよく出演してる排外主義者ご用達の「独立メディア」じゃないですか。

 そして、「人知を超えた世界の非存在を実証出来ない以上」、「天皇=神」「を信じる人を全否定することはできない」って、普通に笑えるんですが。やっぱり『金曜日』はカルト雑誌だったんですね。で、昭和天皇の「容態報道」に接したときのあなたの感想が、「輸血を受けた時点で、昭和天皇は「人間」になったと断定せざるをえない」ですか。「断定せざるをえない」って、すごく残念そうに聞こえるんですが、そうですか、残念だったんですか。

 それ以降、昭和天皇の「政治責任」がより強く問われたのは当然だろう。人間が「神」を裁くことはできなくても、人間である「大元帥」を裁くことは可能だからだ。一方で、平成の天皇が自ら象徴天皇制を強調するのも必然の流れである。憲法は、「人間宣言」をした天皇を象徴としている。そして、多くの市民・国民がそれを支持している。天皇制維持のためにも、天皇は「神」であってはならないのだ。

 政治責任をカッコで括る意味がわかりません。というか、昭和天皇の罪を生前に強く追及できなかった理由が、天皇が「輸血を受け」る前で、まだ「神」だったかもしれないから・・・って、こんな説明で読者が一人でも納得すると思っているなら、あなたこそ本格的に神がかってるんですが。それはともかく、「右翼だけに自身の天皇制擁護の考えを説明するのではなく、天皇制反対論者がほとんどと思われる読者にきちんと説明しなければいけないだろう」というelectric_heelさんのまっとうな要求は、「きちんと」という部分を除いては、ついに実現したみたいですね。

 実は、反天皇制を掲げる側にとってこの事態は厄介である。昭和天皇がすべての戦争責任を負うことで、「日本の伝統と文化を継承する皇室制度」は無傷ですむからだ。事実、平成の天皇が「平和主義者」であることへの異論はほとんど出てこない。結婚50周年を記念しての「お言葉」にも、「軍服を着ない天皇こそ真の天皇である」というメッセージが色濃く滲み出ていた。

  1. 反天皇制を掲げる側」・・・って、誰のこと?
  2. 昭和天皇がすべての戦争責任を負う」・・・って、何一つ負わずに死んだじゃん。
  3. 天皇制の廃止を目指さない「反天皇制」って何?戦争の違法化を目指さない『金曜日』の「反戦論」みたいなもの?それはもう反天皇制でも反戦論でも何でもないんですが。
  4. 「平成の天皇が「平和主義者」であることへの異論はほとんど出てこない」って・・・そんなバカバカしい主張にわざわざ「異論」を唱える人もいないと思うんですが。「軍人が「平和主義者」である」という命題そのものがおかしいのと同じ。
  5. 「「軍服を着ない天皇こそ真の天皇である」というメッセージ」・・・えーと、もうスルーで。

 しかし、ここに「米国」という要素を持ち込むと、天皇制は別の矛盾にさらされる。本誌今週号で特集したように、政治家・昭和天皇が事実上、日本の米国属国化を認めたことは、最近の研究から明らかである。そして、米国の支配下におかれることで、当然のことながら「日本古来の伝統と文化」は大きく揺らいだ。
 評価は別にして、「天皇を戴いた日本は四民平等である」というのが皇室制の柱の一つだろう。どう考えても、米国のような優勝劣敗思想の国とは相容れない。むろん、新自由主義の導入など、到底、許されるものではないはずだ。「情けは人のためならず」が、本来の意味とは真逆に解釈される社会、それがアメリカナイズされた今の日本である。

 「天皇を戴いた日本は四民平等である」
 「天皇を戴いた日本は四民平等である」
 「天皇を戴いた日本は四民平等である」 

 ・・・北村編集長のコラムを支離滅裂なものとして笑い飛ばすのは、そろそろやめた方がよいのかもしれない。要するに、こういうことだろう。新自由主義と戦うためにはすべてを利用する。対テロ戦争」ならぬ「対新自由主義戦争」というわけだ。「戦争」なのだから、論理も倫理も、ましてや「やつら」(=外国人)の人権など、どうでもよいのである。むしろ、「やつら」の人権を効率よく侵害すればするほど、「戦果」が上がってめでたいということにさえなる。

 昭和天皇が問われる政治責任は、「戦争」だけではない。皮肉な表現を用いれば、「皇室制度のすっぽり抜けたところに米国という権力・権威を置いた」ことにもあるのだ。新憲法成立により象徴天皇制は残ったが、爾来、この国は、まったく風俗、慣習の異なる国・米国に隷属することとなった。「親米の民族派」がなぜ存在するのか、私には大いなる謎である。(北村肇)

 「対新自由主義戦争」という文脈でコラムを読み返してみると、その支離滅裂さには失笑するどころか戦慄を覚える。「対新自由主義戦争」の前線を担う『金曜日』を、これまで以上に徹底的に批判していかなければならない。

*1:ざっと見た限り7本

*2:高橋哲哉はこうしたことを主張し続けているので、『金曜日』誌上ではあまり見かけなくなった(ように思う)。「ように思う」というのは、ここ数年『金曜日』を読んでいなかったからで、あまり正確ではないかもしれない。

*3:もっとも、記憶力があまりよくないので、重要な点が抜けているかもしれない。

*4:梶村秀樹、『朝鮮史 その発展』、世界歴史叢書、2007年、p.273