引っ越しました

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 fc2ブログに引っ越しました。エントリーのアップも始めていますので、いつでもどうぞ。

 http://mdebugger.blog88.fc2.com/

 というわけで、これからもよろしくお願いします*1

*1:twitterはやってません

日本人原理主義下等(9)

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(9)トラックバック+ブクマコメントへのお返事

 暑くてすっかり間が空いてしまいましたが、最後にトラックバック+ブクマコメント(すべてではないですが)へのお返事を。

 でも、虐げられた人たちと彼らのもとに立とうとする人たちが、敵対性を表に出すのは当然だと思うんですよ。差別の問題でも貧困の問題でもね。そしてそれ以上に、社会問題は誰もがそこにいる街頭でこそ表現されるべきであり、街頭行動にはコンフリクトがつき物であり、それを通して初めて未知の問題は知れ渡っていくようになる。それをしないから広がらずに、日常の事務業務に追われて余裕だってなくなっていく。そして試行錯誤の行動を通して、人の怒り・悲しみ・喜びは肉質を持って伝わるようになるのだ。支援それ自体の自己目的化で問題を軟着陸させようとする姿勢は、街頭行動・大衆行動(ふるーい言葉だけど)の不在を何よりも物語っていると思うのです。

 だから欧米のように、街頭行動をもっと当たり前にしよう。

 「日本の大学業界、NGONPOにおけるデモや街頭運動の不在」から、「はてな界隈での「反日上等」へのヒステリー化」を考察するエントリー。自分には欠けていた視点だったので新鮮です。最近デモにも行けてないなー。

 アクティビスト/編集者・園良太の日記:「反日上等」について――街へ出よう。
 http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20090729/1248862247

一点、リンク先の筆者と異なるのは、それを踏まえたうえで私はネット上で「反日上等」とやりかえすのはまずいな、と思う。そのような構図が作られてしまうことがマズイ。たとえば排外主義を批判するはてな界隈の人々の間で"show your flag!"みたいになっている。これこそが「反日/反日上等」二項対立の隘路。いいんだろうか。とおもっていたら、この部分を明解にした見事な考察が近日登場していた。

 kom’s log:「承前「反日上等」」
 http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20090808/p1

 上で紹介されている深海魚さんのブログも必見です。確かに、私は「反日上等」の作用と副作用を体系的に論じてはまったくいないので、その点については批判を受けつつ、今後の課題にしたいと思います。

  • ブクマコメント

(1)「好ましい/好ましくない」外国人論としての日本人原理主義

tari-G村上春樹現象の時も批判したけど、なんか駄目なんだよなぁ。今回も肝心の石蹴り氏の見解を把握できてないし、国民や国民主権の理解とかも変。」

 石蹴り氏の文章はまったく読んでないと断った上で書いているつもりですが。

seijigakuto 「相変わらずの電波。少しまともに調べれば、NGO内部でその点も含めてきちんと議論がされていた事くらい分かるんですけど。外部からラディカルな事いって、「いってやった気分」になってるだけで内容は(ry」

 「はてな」の内部にいたのでわかりませんでした。反省して外部で出直します。

Carnot1824不法滞在者数について、入国管理局曰く”l「平成16年からの5年間で,不法滞在者を半減させる。」とした政府目標(略)”http://www.moj.go.jp/PRESS/090217-2.html。このデータをどう解釈すべきか?」

 http://www.repacp.org/aacp/index.php でしょうか。

NOV1975 「だからやなんだよ。日本人原理主義なんて関係ないのに連想されてこんな変なタイトルになる。問題の本質を失われるスローガンを担ぐのは止めようぜ。」

 我ながらめっさ冴えたタイトルだと思ってました。勘違い入っててすみません。

F1977 「にほんじんげんりしゅぎ・げとー!(かとーやと、勝とー!みたいなので。けど、こっちでいいのでしょうか)」

mujige 「「日本人原理主義外道」でいいんじゃないか。」

 こちらの方が冴えてましたね。

Midas 「この先問題になるのは国家間のナショナリズム対立でなく国粋主義化したグローバリズムと旧国民国家の対立。在特会反日上等はユーゴ内戦レベルの贋の対立でしかない。NATOがユーゴに何をしたかはご存知の通り」

 「贋の対立」であろうとなかろうと、マイノリティを抑圧するマジョリティの責任は解除されないでしょう。まして、対立が「真」であるか「贋」であるかを判断するのがマジョリティであればなおさらです。もしも、「国粋主義化したグローバリズム」と闘うために「在特会反日上等」は共闘するべき、ということをおっしゃっているのなら、賛同できません。


(2)マスター・ナラティブへの欲望――保守とリベラルによる支配の相互補完――

mujige 「坂中的な多民族国家論はもっと警戒されていいと思う。」

 まったく同感です。


(3)日本人原理主義におけるレイシズムと「好意」の共存

F1977 「日本の植民地時代に日本で生まれ、解放後クニに帰って四・三事件にあい、密航で日本に戻って入管に自主したあるハルモニが入管に言われた言葉「日本人よりも日本人らしいから日本人になりなさい」一般永住者ですけど」

 ・・・・・・言葉がありません。いま『嫌日流』を読んでいるのですが、本当に「知れば知るほど嫌いになる国」ですね。


(6)「在特会」と「リベラル・左派」の敵対的な共犯関係を問う

kmiura 「秀作。引き続きほとんど同意なのだが、”反日上等”は筋が悪いと思う。私にとってはそれもまた”低コストの「良心」”に含まれてしまう。コンプリメンタリー、という意味で。」

 エントリーでは詰められませんでしたが、「反日」/「反日上等」という表現そのものについては、実は私にも迷いがあります。レジスタンスが「テロ」というレッテルを貼られるなら、「テロ」という枠組それ自体を問い直すことを避けては通れないですよね。ご指摘ありがとうございます。

PledgeCrew 「批判の眼目は敵が設定した土俵に安易に乗るなということ。彼らがいう意味での「反日」であることをいったい誰か批判し非難したのか?人権法案を攻撃する者が差別問題をだしにしてることは明らか。それとこれとは違う」

 私から見れば、「反日上等」を批判する側が(結果として)「在特会」的な論理に乗ってしまっているように思えます。もちろん上の(kmiuraさんへの)コメントを踏まえてのことですが。

sillyfish 「低コストというか、コストの上限が低いのが問題なんだと思う。差別に無自覚な善意も「反日上等」も言うだけならタダなのは一緒だけど、前者は「日本人」という枠組みを問う方向に決して行かずにすむ」

 マジョリティが払うコストはいつも低いんですよね。半分は自戒としてそう思います。

F1977 「大阪生野区の某駅前で、入管と「市民」らしき人々が「不法滞在者」らしい人を見つけたら通報しましょう!キャンペーンでティッシュを配っていました。政治的権利がないのに、こんなことに税金使われてて腹立ちました」

 入管に税金が使われてるのがおかしいですよね。「市民」が立ち入らない(非正規滞在者が通わされる)エリアには窓が一つもなかったりするし、やつらは本格的に心が壊れてるんじゃないでしょうか。

hituzinosanpo 「「敵対的共犯関係」というのは韓国のイム・ジヒョンさんの用語ですね。『敵対的共犯者たち』が翻訳されると いいな。『現代思想』に のった論文は まだみてない。」

 実は単なる偶然で、イム・ジヒョンさんの論文はまだ読んだことがありません。論文探してみたいと思います。ありがとうございます。


(8)ニーメラー牧師の訴えは日本人マジョリティに届くか?

kmiura 「米国から帰ったときに中学校でさんざん袋叩きになったから私はいまだに日本の"マジョリティ"が信じられない。で、このマジョリティってダイナミックに構成されんだよな。」

 私も小学校の高学年はボコられまくりでした。子どもって実はかなり全体主義ですよね・・・。

Midas 「ブログ主の主張は1から10まで出鱈目。なぜならば立脚点が間違ってるから。「いつかいじめられる」←無謬の日本人観を想定してる時点で単なる藁人形叩き。日本人「も」既に虐められてると考えねば対話の余地などない」

 誰と対話をするための余地なのでしょうか?それがレイシストであるなら、私には始めから余地はありません。

 以上です。(終わり)

日本人原理主義下等(8)

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(8)ニーメラー牧師の訴えは日本人マジョリティに届くか?

 以上長々と書いてきたが、本書を通じた日本人原理主義左派に対する批判はひとまず終わりにする。本章では、これまで取りこぼしてきた点について、いくつか述べてみたい。

 鈴木が「外国人問題」に関する基本的な認識において入管とマスター・ナラティブを共有していることは(2)で論じたが、鈴木は労働問題に関する基本的な認識においては企業経営者とマスター・ナラティブを共有してさえいる。もういちいち驚くのも疲れるほどだが、(一応)驚くべきことに、鈴木は日本企業が非正規滞在者を搾取しているとは必ずしも考えていないようなのである。鈴木はその理由として以下の事柄を挙げている(強調は引用者による。以下同様)。

 以上、雇用されている労働者の側から賃金をみてきたが、雇用主側からみた非正規滞在者の雇用コストはどうであろうか。非正規滞在者の場合、基本的に社会保険や労働保険などの法定福利費から排除されており、また、派遣や業務請負を通じて働くことの多い日系南米人と異なり、直接雇用が多く、派遣会社や業務請負会社に斡旋手数料を支払う必要がないことから、企業にとって雇用コストが安いと考えられがちである。しかしながら、稲上や五十嵐による調査によっても指摘されているように、住居の提供、家財道具や電化製品の貸与、病気や災害事故の際の対処など、賃金以外のコストがかかる場合も少なくない(稲上他1992:82-87; 五十嵐1999a:6)。本調査の非正規滞在者がこれまで働いた会社でも、会社側が住居を用意することも多く、光熱費も含めて無料である場合もある。加えて、行動が制限されている彼らのために、休みごとに観光に連れ出したり、近所の人との関係に気を配るなど、「不法」ゆえにかかる特別な「コスト」を考慮にいれると、受け取っている賃金だけで「安価な労働者」かどうかの判断を下すことはできない。加えて、「オーバーステイを雇うのは、賃金の安さとばれた場合のリスクとの兼ね合い」と神奈川シティユニオンのM氏が指摘するように、不法就労助長罪で法的処罰を受けたり、元請けから仕事を回してもらえなかったりするリスクも、非正規滞在者を雇う場合の広義のコストであるといえよう。*1

 ・・・・・・「広義のコスト」とやらは、すべて本人に本来支払われるべき賃金から捻出されていると思うのだが(「会社側が住居を用意することも多く、光熱費も含めて無料である場合もある」というのは、単に本人名義で契約ができないから会社が代行しているだけだと思うのだが)・・・・・・。というか、素朴に疑問なのだが、鈴木はこんな本を世に出して、いったい何がしたいのだろうか?これが確信犯ではなく、単なる天然だとしたら(そしてそんな気がするが)、本気で恐怖を感じるのだが・・・・・・。

 言うまでもないが、鈴木の論理によれば、女性の賃金が男性と比べて安い(女性の約54%が非正規労働者として、正規男性の約40%の低賃金で働いている)のも、企業が「「女性」ゆえにかかる特別な「コスト」を考慮にいれ」ているからであり、企業が「女性差別で法的処罰を受けたりするリスクも、女性を雇う場合の広義のコストである」などとして、摩訶不思議にも正当化されかねない。

 ちなみに、鈴木がインタビューをした非正規滞在者28名のうち、実に11名が労働災害に遭っているが、そのうち7名は雇用主との関係が悪化することを恐れて労災を申請できず(うち6名が転職し)、労災を申請できた4名も全員が治療後に離職している。これで「病気や災害事故の際の対処など、賃金以外のコストがかかる場合も少なくない」などとよくも言えたものである。日系南米人を露骨に物扱いする以下の文章からもわかるように、鈴木は、外国人を使い捨てにする経団連的価値観に、すっかり順応しきっているようである。

 業務請負業者の管理のもと、企業の需要に応じて、柔軟に職場を、時に生活の場までも変える日系南米人は、企業にとって、労働力の「Just-in-Time-System」を実現する理想的な選択肢の1つであり、日本経営者連盟による「雇用ポートフォリオ」で示された「雇用柔軟型従業員」の有用な供給源として構造化されつつある。*2

 「外国人を使い捨てにするためのコスト」を語る鈴木が、「外国人問題」におけるリベラルな論者として通用する(と思われる)ような、日本の外国人「支援」運動の水準は、どう考えても誉められたものではないだろう。

  • 日本人の加害性を省みない外国人「支援」運動?

 本書を読んで改めて実感したのは、日本人の加害性を省みない外国人「支援」運動が、いかに際限なく堕落していくか、ということである。こうした例は枚挙に暇がないと思うが、個人的な体験から一つ挙げると、私は、ある難民と関わるなという「忠告」を、NPO/NGO関係者*3から受けたことがある。

 要約すると、その難民は「精神的に不安定で、日本に適応する努力もしていないので、わざわざ関わる価値はない」ということであった。まったく心底うんざりしたが、黙っているわけにもいかないので、「日本社会のせいで身動きできなくなってる人たちを、他人事のように切り捨てておきながら、支援者ぶるのは都合がよすぎないか」と文句を言ったところ、「あなたのためを思って言ってるのに・・・」(こんなところにも「善意」が!!!!!!!!!!)などと返されて、まったく話が噛み合わなかった*4

 ところで、鈴木らリベラルな日本人原理主義者にとっては、日本人による在日外国人「支援」運動は、どこにも終わりがないとも言えるし、どこにでも終わりがあるとも言える。こうした連中からすれば、外国人が日本人と完全に平等になることはありえないのであり、まさにそれゆえに日本国家/日本人が外国人に「恩恵を与える」プロセスにも終わりがないのである。

 一方、運動に明確な到達点がないということは、どこにでも便宜的に終わりを設定できるということでもある。例えば、当該外国人が在留特別許可を取得することが、あたかもハッピーエンディングであるかのように(日本人によって)語られる場合がそうだろう。けれども、在留特別許可それ自体が、外国人を選別し、外国人コミュニティを分断支配する道具として使われていることを、どれだけの日本人が知っている――あるいは知ろうとしている――だろうか?(4)で「外国人を監禁する同化の無限階段」について書いたが、実はこうした外国人「支援」運動もまた、エッシャーの無限階段をなぞっているのである。

  • ニーメラー牧師の訴えは日本人マジョリティに届くか?

ナチス共産主義者を攻撃したとき、自分はすこし不安であったが、とにかく自分は共産主義者でなかった。だからなにも行動にでなかった。次にナチス社会主義者を攻撃した。自分はさらに不安を感じたが、社会主義者でなかったから何も行動にでなかった。それからナチスは学校、新聞、障害者、ユダヤ人等をどんどん攻撃し、そのたびに不安は増したが、それでもなお行動にでることはなかった。そしてナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であったから行動にでた。しかし、そのとき自分のために声を上げてくれる者はいなかった。(マルティン・ニーメラーナチスに抵抗したルター派牧師)

 外国人排斥を許さない6・13緊急行動:「【最新版】外国人排斥を許さない6・13緊急行動への参加・賛同の呼びかけ」
 http://613action.blog85.fc2.com/blog-entry-6.html

 上の呼びかけ文を読んだときに、何となく気になってそのままにしてしていた疑問がある。日本人マジョリティは果たしてナチス・ドイツ政権下の牧師たりえるのだろうか?ニーメラー牧師の告白は、マイノリティ同士の連帯を訴えるには至言であると思うが、排外主義が台頭する現代日本において、日本人マジョリティは、まさにナチスではないにしてもその支持者たちなのではないだろうか?

 もちろん、自らもいつかは「かれら」に攻撃される側になりうるという想像力をもって、抑圧されている他者のために立ち上がることは、実に倫理的な選択であると思う。けれど、日本人としてはこの場合、自らもいつかは「在日特権を許さない市民の会」らに攻撃される側になりうるという想像力をもって、外国人のために立ち上がるよりは、自らが生まれたときから外国人に対する差別者であるという認識をもって、自分自身のために立ち上がろうとする方が、より倫理的な姿勢なのではないだろうか?単純に言えば、「いつか自分もいじめられる側になるかもしれないから、いじめと闘う」のではなく、「いま現在自分がいじめに加担しているからこそ、いじめと闘う」と日本人は断言するべきではないだろうか?

 日本人が自らの加害性を引き受けることを(多かれ少なかれ)回避している限り、日本人が在日外国人と真に連帯することは不可能だろう。戦後補償がそうあるべきであるように、排外主義との闘いは、自分自身の拠って立つ足場を崩すところから始めなければならないのではないか。

(次回に続く)

*1:鈴木江理子、『日本で働く非正規滞在者―彼らは「好ましくない外国人労働者」なのか?』、明石書店、2009年、pp.328-329

*2:同上、p.470

*3:例によって、友人を「支援」していると自称する連中の一人である。

*4:こう書くと、極端な例ばかり脚色してあげつらっているのではないか、と思われるかもしれないが、あいにく残念ながらそんなことはない。

日本人原理主義下等(7)

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(7)外国人に対する「善意」はどこから来てどこへ行くのか?

 これまで述べてきた理由から、私には「在日特権を許さない市民の会」ら日本人原理主義極右に批判の照準を合わせるつもりはまったくない。むしろ、「在特会」らに振り回されているうちに、外国人に対する管理体制の強化(例えば新たな在留管理制度関連法成立)や、在日朝鮮人に対する国家を挙げての人権侵害(最近では対朝鮮全面輸出禁止措置に伴う在日朝鮮人の郵便物の不許可など。これほどの民族差別が国家レベルでまかり通り、かつ圧倒的多数の国民がそれを容認する「民主主義国」を私は他に知らない。*1)に反対する声がますますか細くなっていくことを恐れる。

 これに関連して、最近の「在特会」の動きを見ていて思ったのは、かれらが、日本国家に戦争責任・戦後責任を果たさせようとする国外内*2の勢力に代表される、「国益」を損なう主張を体現している人々(在日朝鮮人を含む)を攻撃対象にしているのは、一方でレイシストとして基本に忠実なことがあるだろうが*3、他方で近年の「リベラル・左派」の変質――「国益」論的再編――に多かれ少なかれ気づいているからではないか、ということである。

 後者はあくまで個人的な推測だが、「在特会」らが職業柄(?)「リベラル・左派」の動きをマメに追っている*4ことを考えると、それほど的外れでもないと思う。おそらく、かれらは「サヨクは人権ファシストだ」などという決め台詞(?)とは半ば裏腹に、「リベラル・左派」の自壊と、それに伴って戦後補償を求める人々(「靖国解体企画」など天皇制国家の解体を主張する人々を含む)が孤立させられてきていることを、当の「リベラル・左派」以上に意識しているのではないだろうか。

 ここでは触れないが、実際、「在特会」らが誰を攻撃していないかを分析することは、かなり興味深い問題提起になるのではないかと思う。在特会」が執拗に攻撃を仕掛けている対象は、日本国家のイスラエル化に実効的に対抗しうる思想・運動の要であり、日本国内においては圧倒的少数派であるところの人々である。

 もちろん、「在特会」らの攻撃によって、「リベラル・左派」の団結が促進される面も一方ではあるのだから、戦後補償を求める人々をいっそう孤立させようとする「在特会」らの思惑は裏目に出るだけではないか、という反論もあるだろう。けれども、「リベラル・左派」の多くが、「在特会」らの「行き過ぎ」た行為に憤慨ないし憂慮を表明してみせるだけで、これを契機に、差別を禁止する国内法を制定し、改めて戦後補償運動に取り組むべきだといった主張を一向に打ち出そうとしない現状を見る限り、そうした反論も虚しいように思う。

 端的に言って、「在特会」らによる「慰安婦展」妨害を、表現の自由に対する侵害という抽象的レベルでしか批判できない「リベラル・左派」は、はなから勝負に負けているのである。これではせいぜい「在特会」らのヘイトスピーチの「自由」を具体的レベルで守って終わりだろう。

 話を本書に戻す。鈴木は、「外国人問題」という名の日本人問題を惜し気もなく見せつけてくれるが、その中でもとりわけひどいのが、外国人に対するパターナリズムである。鈴木は、第三章で非正規滞在者と「雇用主とのパターナリスティックな関係」*5について論じている(ちなみに鈴木は「非正規滞在という就労や生活に制約がある外国人の立場からすれば、パターナリスティックな温情を、素直にありがたく受け取っているようにも観察される」*6としている。いったいどこまでおめでたいのか。)が、鈴木を含むNPO/NGO関係者自身のパターナリズムについては一切言及していない。

 非正規滞在者に対する鈴木のパターナリズムを示す例は随所に見られるが、わかりやすい例として、NPO/NGOの活動を称える以下の発言を引いてみよう(強調は引用者による。以下同様)。

 そして、このようなNPO/NGOの活動に支えられることによってはじめて、「不法」という法的地位ゆえに権利が侵害されやすい非正規滞在者や「不法」就労者は、自らの権利を知り、その権利を行使することができたのであった。*7

 鈴木のいう「権利」が、非正規滞在者の基本的人権ではなく、日本国家が(NPO/NGOの日本国家への働きかけを受けて)かれらに対してごく限定的に保障している施恵的な「権利」であることは明らかだろう。事実、日本では、非正規滞在者に限らず外国人には生活保護を受ける権利すらない*8のだから、問題にすべきは、外国人が基本的人権さえ行使できない状況であるはずだ。外国人に日本人と同等の権利を保障することが日本人自身によって目指されていない限り、日本人が外国人に「自らの権利を知」らせるということは、結局のところ、外国人に対して「分をわきまえろ」と言うこととどう違うのか*9

 ちなみに、鈴木が同章でインタビューをしている韓国人労働者は、「来日直後、同じ済州島出身の女性に誘われて、神奈川県内の労働組合に加入したことから」、「日給は、16,000円(入社時14,000円)、残業代は時給1,500円で、平均月収は45万から48万円。有給もある」*10という環境を自ら勝ち取っている。けれども、こうした例を挙げるまでもなく、NPO/NGO関係者の「善意」がなければ、非正規滞在者が「自らの権利を知」ることも、「その権利を行使すること」もできない哀れな存在だというような鈴木の認識は、あまりにも外国人をコケにするものである。

 第一、日本人が外国人に対して「善意」やら「寛容」やらを発揮できるのは、そもそも日本人が外国人を制度的・社会的に無力な状態に貶めているからではないのか。こうした「善意」ないし「寛容」の基盤にある日本人原理主義を問わないまま、それらを手放しに礼賛することは、差別の無条件の肯定に他ならないだろう。本書は総じてNPO/NGOに対するナイーブな賛美に満ち溢れているが、こんな独善的な認識が、当事者である外国人にも共有されていると思ったら大間違いである(ただし、外国人がそうした認識を共有しているように振舞うことはあるだろう。そうしなければ日本人は逆ギレするだろう、と外国人が考えるに足る合理的理由はあまりにも多いと思う)。

 ところで、こうしたパターナリズムの行き着く先はどこなのだろうか?まあ、ある意味ではすでに行き着いた感もあり、温情を装った外国人労働者への追放政策が着実に実行されてもいる。在日朝鮮人に対する北朝鮮への「帰国」支援事業が、「人道」の名のもとに遂行されたことも忘れてはならないだろう。こうしたパターナリズムは、ショーガイシャ(「脳死*11者を含む)に対してしばしば突きつけられる、自己決定権の究極的な否定(「こんな姿で生きているよりも死んだ方が本人も幸せだろう」)には及ばないまでも、外国人を本来的に日本に「いてはならない存在」と位置づけ、外国人の生存権を否定している点では、そう変わりはないと思う。

 また、本国人である日本人とのつきあいは、見知らぬ国で働く彼らにとって、単に仕事を紹介してもらうだけではなく、日本の賃金水準や職場慣行についての情報や助言をえるという点でも大きな役割を果たしている。

 加えて、日本人とのつきあいは、非正規滞在者の生活面でも、重要な意味をもっている。休みを一緒に過ごす、困ったことを相談する、家を借りる際の保証人になってもらうなど、日本人との交流によって、非正規滞在者の日本での生活はより豊かなものとなる。その結果、仕事の充実度が増すとともに、日本での生活を楽しむことによって、日本が働くためだけの場所ではなくなり、帰国が延期され、滞在が長期化する要因にもなっている。*12

 上記は(4)でも引用したが、鈴木は外国人に対する抑圧構造を一応は認めながらも*13、基本的には日本人が外国人にとっての「窓」であるというパターナリズムを堅持している。外国人を排除する社会を作っておきながら、日本人が外国人にとって社会への「橋渡し」になるという、日本人マジョリティの傲慢ないし妄想は、徹底的に叩き潰さなければならない。DV加害者が、自ら監禁している被害者に新聞を読み聞かせてくれるからといって、被害者が加害者に感謝しなければならない筋合が何らないのと同じである。

 いわゆる「外国人労働者受け入れ論」が、一見リベラルなようでその実終わっているのも、それが、外国人には日本で生きていく権利はないという発想にもとづいて、外国人を受け入れるとか受け入れないとかいった論理を展開しているからだと思う。現実に存在している(しうる)外国人を受け入れようとすることが、そもそも日本人側のとんでもない驕りである。鈴木には『「多文化パワー」社会――多文化共生を超えて』(共編著、明石書店、2007年)という著作もあり、読む前からケチをつけるのもよくないが、同書が、日本人と外国人が対等に生きていける社会を提言していると思えるほど楽観的にはなれない。

 日本人マジョリティの多くが日常的に外国人と接することもなく*14、外国人を排除する社会の中で生活している以上、日本人が「多文化共生」を志向することは、外国人に対する自身の(無意識の)差別意識を深く自覚し、日本人である自分自身の怖ろしさと正面から向き合う営みなしには不可能だと思う。自分たちがごく当然のものとして持ち続けてきた感覚が、外国人を排除する社会によって育まれ、翻ってそれが外国人を無意識のうちに抑圧・差別する社会を再生産していく感覚であることを認め、日本人自身がそれを克服していかない限り、「多文化共生」が、「同化の論理」と「旧臣民の論理」にもとづいて「積極的に外国人の階層化を推進する」社会以上のものになることはないだろう。外国人に対するパターナリズムや「寛容」は、端的に不要であり、(日本人自身にとっても)有害である。

(次回に続く)

*1:あ、嘘でした。イスラエルがあった。

*2:日本語的には「国内外」とするべきだろうが、日本国内の戦後補償運動は近年加速度的に弱体化している。

*3:実際、かれらは人種差別撤廃委員会や「ディエン報告書」が重点的に批判する差別行為に重点的に手を染めている。

*4:たぶん私よりも詳しいと思う。

*5:鈴木江理子、『日本で働く非正規滞在者―彼らは「好ましくない外国人労働者」なのか?』、明石書店、2009年、pp.384-386

*6:同上、p.386

*7:同上、p.187

*8:正確に言えば、「合法的滞在者」のうち「身分または地位にもとづく在留資格」を持つ外国人には、生活保護法が「準用」されることがある(権利として適用されるわけではない)。

*9:もっとも、歴史的文脈といった「分をわきまえ」れば、外国人(特に在日朝鮮人)はなお日本人と同等以上の処遇を要求できることになるだろうが。

*10:同上、p.301

*11:「障害者」もそうだが、「脳死」という用語も、私たちが決して慣れてはならない暴力を備えた言葉であると思う。

*12:同上、p.446

*13:ただし、これまで述べてきたように、鈴木がこうした抑圧を自身の問題として捉えていないことは明らかだが。

*14:http://www.city.nagoya.jp/shisei/koho/monitor/nagoya00022599.html など

日本人原理主義下等(6)

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(6)「在特会」と「リベラル・左派」の敵対的な共犯関係を問う

 8月1日(土)から3日(月)まで三鷹市で開催されていた「慰安婦展」(「ロラネット」主催)が、「在日特権を許さない市民の会」らの呼びかけによって、一部レイシストの吹き溜まりになってしまったので、今回は予定を変えて「番外編」にすることにした(といっても内容はあまり変わらないが)。

 「慰安婦展」をめぐる一連の経緯については、CMLなどに詳しいが、100人ほどのレイシストが会場の外に集結して、会期中延々とヘイトスピーチを垂れていたそうである。まったく腐れた連中だが、より本質的な問題は、かれらを法的に裁けない日本社会そのものの腐敗にこそあるだろう。「在特会」らの作為を批判することは、もちろん大事なことだと思うが、差別を禁止する国内法を制定しようとしない日本社会の不作為の方が、よほど系統的な他者の否定をやってのけていると思う。

 日本政府は人種差別撤廃条約の第4条(a)*1および(b)*2を、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」(憲法第21条)を理由に留保している。もっとも、人権擁護法案が廃案になった顛末を見ても、「表現の自由」を盾に、ヘイトスピーチを擁護、黙認、あるいは軽視しようとする欲求は、日本政府よりもむしろ国民にとって、より切実であると言えるかもしれない。当時、流行っていた(と私が記憶する)FLASHなどが、その典型だろう。

 「「差別からの解放」を声高に叫ぶ一部の人達が「調停又は仲裁の申請」を乱発し、そのせいで人々が「被差別者」全体に反感を持ち、かえって問題が悪化する事も考えられます」などという主張は噴飯物でしかない(例えば、フェミニストの主張に逆ギレした男性が、別の保守的な女性に暴力を振るった場合も、その責任はあくまでフェミニストが負うことになってしまうため)。が、私がここで問題にしたいのは、こうした主張の非論理性・非倫理性ではなく、こうした主張を「良識」の衣で覆い、「リベラル」の油で揚げたものこそが、実は「反日上等」バッシングの本体なのではないか、ということである。

――証明はじめ――
「差別からの解放」を声高に叫ぶ一部の人達が「反日上等」を乱発し、そのせいで人々が「外国人」全体に反感を持ち、かえって問題が悪化する事も考えられます」
――証明おわり――(※反論があればかかってきてください)

 ちなみに、FLASH(文章)製作者のサイト(たぶんここ)を見る限り、かれらが「在特会」の系列グループであるらしいことがわかる。「反日上等」プラカードを叩いた人たちは、「在特会」とは一線を画していた(というか「在特会」を批判していた)はずなのに、どうしてこうもキャラがかぶっているのか?まるであだち充の漫画のようである*3

 上は、人権擁護委員の国籍条項を外したことについてのヘイトスピーチ。さすがにここまで露骨な言い方はしていないが、差別者(日本人側)のレイシズムを問わない差別主義は、鈴木のような「リベラル」な外国人「支援」者も共有している。

 「在日特権を許さない市民の会」の存在が許しがたいのは、外国人(主に在日朝鮮人)に対する犯罪的な言動に加えて、(結果的に)日本の「リベラル・左派」に対して極めて低コストで「良心」を提供していることだと思う。後者については、明らかに買う側の方により責任があるので、こうした人々の敵対的な共犯関係を問う必要があるだろう。

 一例を挙げると、私の友人は、友人を「支援」していると自称する日本人たちから、「国に帰らないのか」「日本にいたいなら日本人と結婚しろ」などと言われ、排除と同化そのものの差別を受けている。しかも、友人から話を聞くと、その人たちはどうやら「善意」でそう言っており、自らが差別的な言動をしているなどとはまったく思ってもいないようなのである(ちなみに友人は難民である)。こんなゴミのような連中でさえ、「在特会」を批判することで、自らの倫理性を自他に訴え、外国人と「連帯」できる(気になれる)のだとすれば、これほど安い買い物は他にないだろう。まさに「良心」のバーゲンセールである。おまけに、このバーゲンでは、なぜか需要があるほどに商品の価格が下がっていくのである。

 ちなみに、鈴木は、

  • 「日本における人種差別の存在を認め、かつそれと闘う政治的意志を表明すること」
  • 「差別を禁止する国内法令を制定すること」
  • 「人種、皮膚の色、ジェンダー、世系(descent)、国籍、民族的出身、障害、年齢、宗教および性的指向など、現代的差別における最も重要な分野を集約した、平等および人権のための国家委員会を設置すること」
  • 「歴史の記述の見直しおよび歴史教育のプロセスに焦点を当てること」

などを勧告した、「ドゥドゥ・ディエン国連特別報告者による日本公式訪問報告書」を受けて、「「周縁化」「不可視化」を克服し、差別や偏見のない多文化共生社会の実現をめざす」NGO共同声明に署名している。

 私から見れば、鈴木の言説こそ、ディエン報告書が指摘する「文化的・歴史的な外国人嫌悪のみならず、程度の差こそあれ、そうした人びとの文化・歴史・価値体系へのはなはだしい無知とも結びついている」、「外国人・移住労働者に対する差別」を露呈していると思うのだが、鈴木の方では、自らが外国人差別をしているという自覚にもとづく後ろめたさがおそらく皆無である(というより自らを「善意の日本人」だと疑っていない)から、こうした声明に「良心」的に名を連ねることができるのだろう。実際、鈴木の日本人原理主義ぶりは、本書のいたるところに見られる(強調は引用者による。以下同様)。

 国籍と関連して、日本人との人種的な異質性も、彼らの就労を規定する要因の1つである。序章で取り上げたように、青木は、外国人労働者の階層化の基準の1つとして、「可視性の度合い(visibility)」、つまり「日本人と似ているか否か(distinguishing symbol)」を挙げている(青木1992:353-335; 同2000:127-8)。また、滞日バングラデシュ人を調査した樋口・稲葉は、「外見上の相違」を彼らのマイナス要因として指摘している(樋口・稲葉2004:63)。

 例えば、外国人としての可視性が高いバングラデシュ人の場合、1980年代後半から多くのバングラデシュ人とかかわってきたA.P.F.SのY氏の指摘や、総合研究開発機構(1993)の帰国出稼ぎバングラデシュ人調査からもわかるように、流入初期には飲食店で働く者も多かった。だが、日本人と同じモンゴロイド系である中国からの就学生が増えるにしたがって、三者と接することが少ない工場での就労が主流となっていった。すなわち、バングラデシュ人は、外国人としての可視性ゆえに、飲食店への入職経路が閉ざされてしまったのである。*4

 ・・・・・・憶測でものを言うのはよくないとは思うが、鈴木の「支援」を受けている*5外国人こそ、明日にでも金嬉老になりかねない「最前線の外国人」たちなのではないだろうか。かれらをそこに追いやっているのは、「在特会」のような極右ではなく、鈴木のようなリベラルな日本人原理主義者たちではないのだろうか。(2)で、「鈴木は、こうしたカウンター・ナラティブが日本人原理主義者のマスター・ナラティブにとってタブーであることをよくわきまえているのだと思われる」と書いたが、ここまで無自覚なレイシストぶりを披露されると、鈴木はカウンター・ナラティブに対して実は単純に興味がないだけなのかもしれないとさえ思えてくる(しかも、この方がずっとタチが悪い)。

 それにしても不思議で仕方ないのだが、鈴木はいったいディエン報告書のどこを読んでいたのか?「外国人としての可視性」や「第三者」(入管のいう匿名の「市民」)などというふざけた概念を持ち出して、日本人が自ら差別を克服することを回避する構造こそ、報告書が断罪する「人種主義、人種差別、外国人嫌悪およびあらゆる形態の差別」そのものではなかったのか。「日本人らしくない外国人」を差別する(結局は「日本人らしい外国人」も差別する)日本人のレイシズムこそ、根絶すべき対象ではなかったのか。ディエン報告書は次のように指摘している。

 「日本の入国管理局は、2004年2月にウェブサイト上で、「不法滞在者と思われる外国人」について匿名で通報することを市民に呼びかけるメール通報制度を創設した。市民は他人の国籍を調べることはできないので、ある人が不法滞在者ではないかとの疑いを持ちうるのは、人種的・言語的特徴に基づく「外国人らしさ」によってのみである。この制度は、人種を理由とする犯罪者推定と外国人嫌悪を直接扇動するものである。」*6

 外国人通報制度に関して、鈴木は以下のように「解説」している。

 2004年2月には、法務省入国管理局のHPにおいて、「不法」滞在者に関する情報を電子メールで受け付けるシステムが開始された。法務省の広報は、「一般の方からのご要望にお応えして、不法滞在者の情報提供をメールで受け付けることにしました」と、新たに開設されたメール通報システムについて説明している。非正規滞在者に関する通報は、入管法第62条第1号にも規定されており、それ以前にも、一般市民から電話や手紙などによる情報提供を受け付けていたが、電子メールでの情報提供を開始することによって、より手軽に通報することが可能となり、非正規滞在者を半減するための取組みとして奨励されることになった。そして、情報受付の画面には「なお、本メールは不法滞在者と思われる外国人に関する情報を受け付けるものであり、適法に滞在している外国人に対する誹謗中傷は固くお断りします」という注意書きが添えられているが、不法滞在者と思われる外国人」とはどういう外国人であるかについての説明はない。メール通報システム開設による「不法」滞在者削減の効果は定かではないが、いずれにしても、「通報」という行為によって、広く市民に対して、非正規滞在者取締りへの協力・参加が求められるようになったのである。*7

 「通報」にわざわざ括弧をつける意味がわからないが、鈴木自身も「外国人としての可視性」とやらが具体的にどういうものであるかについての説明は一切していないのである。例によって日本人同士の「暗黙の了解」が想定されているのだろう。いったいどこまで腐っているのか。

 さらに、外国人としての可視性は、就労する職種が限られるという以前に、非正規滞在者にとって摘発の危険性を高める要因であることも、ここで指摘しておきたい。*8

 言うまでもなく、報告書は外国人通報制度の即時廃止を勧告している。

 「法務省入国管理局のウェブサイト上において導入された、不法滞在者の疑いがある者の情報を匿名で通報するよう市民に要請する制度は、人種主義、人種差別および外国人嫌悪を煽動するものである。この制度は、本質的に外国人を犯罪者扱いする発想に基づくものであり、外国人への疑念と拒絶の風潮を助長する。従って、この通報制度は遅滞なく廃止されなければならない。」*9

 くどいようだが、外国人と対等な関係を築きたいと考えている日本人は、在日特権を許さない市民の会」と敵対的な共犯関係を結んでいる、鈴木らリベラルな日本人原理主義者をも、批判していくべきだろう。

 最後に、自分は行けないのですが、関連イベントのお知らせを。

ヘイトスピーチは許せない!
行動する保守!?』にどう向き合うか

日時:8月14日(金) (2時半開場)午後3時〜9時
場所:文京区民センター2A

 つづきはこちらで。「彼らの行動や言動が、私たちの社会に根ぶかく続いている排外主義、他者を押し殺す社会のありようの戯画」という点に、深く共感します。

(次回に続く)

*1:(a)人種的優越又は憎悪に基づく思想のあらゆる流布、人種差別の扇動、いかなる人種若しくは皮膚の色若しくは種族的出身を異にする人の集団に対するものであるかを問わずすべての暴力行為又はその行為の扇動及び人種主義に基づく活動に対する資金援助を含むいかなる援助の提供も、法律で処罰すべき犯罪であることを宣言すること。

*2:(b)人種差別を助長し及び扇動する団体及び組織的宣伝活動その他のすべての宣伝活動を違法であるとして禁止するものとし、このような団体又は活動への参加が法律で処罰すべき犯罪であることを認めること。

*3:特に女性キャラはどれも同じにしか見えない

*4:鈴木江理子、『日本で働く非正規滞在者―彼らは「好ましくない外国人労働者」なのか?』、明石書店、2009年、p.411

*5:私は、鈴木の関わっているNPO/NGOの総意を鈴木が代弁しているとは思っていない。念のため。

*6:http://www.imadr.org/japan/pdf/DieneReportJapanJ.pdf

*7:前掲書、pp.142-143

*8:同上、p.411

*9:http://www.imadr.org/japan/pdf/DieneReportJapanJ.pdf

日本人原理主義下等(5)

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(5)生の極限にいる外国人にとって「反日上等」は迷惑なのか?――では<金嬉老>はどうすればよいのか?――

 それでは、一連の「反日上等」論議について、私自身がどう考えているのかということを述べておきたい。私が何よりも腹立たしく思うのは、「反日上等」というプラカードに象徴されるような「反日」的な主張を行うことは、生命さえ脅かされている外国人――すなわち明日にでも強制送還されかねない「最前線の外国人」――とその支持者にとって至極迷惑である、という問題提起が、反日」的な主張を押し通すことによってしかその生命を守りえない「最前線の外国人」(とその支持者)の存在を、まったく見えなくしてしまっている、ということである。生の極限にいる外国人にとって「反日上等」は迷惑極まりないという合意が「リベラル・左派」の中にさえ成立してしまうなら、いったい金嬉老はどうすればよいというのか?しかも、現代の金嬉老は、裁判員制度という、「市民(=日本人)の健全な常識」が外国人「犯罪者」を文字通り殺しうる牢獄の中に生きているのである(「牢獄」は例えばこんなところにもある。これが刑務所の民営化というやつか?*1)。

 明日にでも強制送還されかねない外国人(だけ)を「最前線の外国人」として想定し、かれらを半ば代弁する形で「反日上等」を批判する人たちは、「日本国家に裁く資格があるのか?」とかつて問い、今も問い続けている、金嬉老とその支援者による必死の訴えに対して、何と答えるのだろう?あるいは、こうした人たちは、金嬉老のことなどもう忘れてしまっているのだろうか?そして、明日にでも金嬉老になるかもしれない無数の「最前線の外国人」たちを、出会う前から忘却の彼方に追いやっているのだろうか?

 もしも、金嬉老のように「民族問題」によって日本人を殺さなければならないところまで追い込まれた外国人について、日本人を殺害することは「反日」の極みなのだから、当人の人権はもちろん生命すら守る必要はないというのであれば、それは「人を殺した者に民族問題を主張する権利はない」という警察の言い分よりタチが悪い。前者の場合は、一方で「「反日」外国人に民族問題を主張する権利はない」と言いつつ、他方で「民族問題を主張する外国人は「反日」である」と言ってのけることができるだから、端的に言って、あらゆる外国人に対して「黙って差別されていろ」と恫喝しているのと同じである。結局のところ、外国人(在日朝鮮人)を「煮て食おうと焼いて食おうと自由」(池上努・元法務省入管局参事官)と言っているに等しい。

 ところで、「反日」(であると日本国家・日本人が表象する)外国人(以下<金嬉老>と表記する)については、人権が抑圧されても仕方ない(もしくは「運動」のために積極的に抑圧するべきである)と考えている人たちにとっても、金嬉老>の人権を守るためには、日本人自身が日本社会を内在的に批判しうる視点を徹底的に掘り下げていく以外にないということは、渋々ながらも了解されるのではないかと思う。ということは、こういうことにならないだろうか?生の極限に置かれている外国人の中には、一方に明日にでも強制送還されかねない外国人がいて、他方に明日にでも金嬉老になりかねない外国人がいる。そのうち後者を守るためには「反日上等」の精神が不可欠なのだが、前者を守るためには「反日上等」はむしろ有害極まりない、と。

 これはおかしくないだろうか?外国人を「親日」としてしか生きられない極限(前者)に追い詰めているものも、外国人を「反日」の限界(後者)にまで先鋭化させているものも、その正体は同じなのに、一方で何よりも必要とされる「反日上等」の精神が、他方では傍迷惑でしかない、などということがありえるだろうか?この理屈はどこかが間違ってはいないだろうか?

 一つの答えとしては、(外国人に日本人と同等の権利を保障しようという普遍的課題からすれば)本来は緊急避難でしかありえない、外国人の「善良」さをアピールする(「かれらはただ日本人の間で穏やかに暮らしたいだけなのに…」)という日本人側の戦略が、いつの間にか常態化し、さらには自己目的化してしまっていることが、上の矛盾を招いていると言えるのではないかと思う。カルデロン一家への支援と処分をめぐって以前書いたように、日本人が非正規滞在者の在留特別許可取得を支援することは、在留特別許可に象徴される日本の入管行政の排他性を問い直すという普遍的な課題の中でこそ初めて意味を持つのであって、在留特別許可への支援それ自体が目的化し、「寛容な日本社会」(を求める私たち日本人)という自己陶酔に転がり落ちるなら、それこそ外国人にとっては「迷惑極まりない」だろう。

 では、なぜ在留特別許可への支援それ自体が目的化するような状況が生じてしまうのかと言えば、一つには当事者(支援者)の余裕のなさということもあるだろうが、最大の原因はやはり日本人原理主義だろうと思う。梶村秀樹は、「私たち(対策委)*2の活動を、エネ・ロス*3とか、さらには政治的課題の追求に妨げになるとすら評した人々」に対して、「私たちは、金嬉老公判に目もくれない政治的な人々を、目もくれないことによって批判すべきではなく、この個別闘争にも影響を及ぼしうるような普遍的課題へのせまり方を一向にしていないことをこそ、批判すべきでしょう」*4と述べている。「政治的な人々」というのは時代的に新左翼のことを指すのだろうが、<金嬉老>の人権に「目もくれない」現代の「リベラル・左派」は、新左翼よりよほど批判に値する。こうした人たちにとっては、<金嬉老>が外国人「支援」運動の妨げになる*5というだけでなく、外国人の「親日化」こそが運動の「普遍的課題」だということにさえなりかねないのだから。

 けれども、繰り返すが、日本国家/日本人が生の極限にまで追い詰めている外国人は、明日にでも強制送還されかねない外国人だけではない。日本には明日にでも金嬉老になりかねない無数の外国人がいる。<金嬉老>は、在日朝鮮人であり、難民であり、もしもあなたが(私も)日本人でなかったら包摂されていたであろう、在日外国人の普遍的な可能性である。そして、明日にでも強制送還されかねない外国人は、明日にでも金嬉老になるかもしれない外国人でさえあると思う。この言葉の意味を理解できない日本人は、自らの社会が外国人に対して強いている絶対的な孤独が、その人の内面をどれほど深く抉っているかということを、知らずに済ませようとしているだけだ。それが日本人自身の人間性をいかに擦り切らせているかということも。

「あなたはなぜパレスチナ難民キャンプに行くのですか?すぐそばに難民キャンプがあるのに。飛行機代も要らない。通訳も要らない。パレスチナの難民キャンプよりもっとひどい状況に置かれた人がここにいるんです」

 P-navi info:「ひとつの地獄からもう一つの地獄「日本」へ」
 http://0000000000.net/p-navi/info/column/200409241924.htm

 「在日特権を許さない市民の会」がその主要な標的として掲げているのが在日朝鮮人である以上、「在特会」に対抗する運動が、<金嬉老>を守るために「反日上等」の精神で臨むのは、まったく正しいことだと思う。むしろ、同じように生の極限に追い詰められている外国人の存在をダシにして、<金嬉老>を運動から切断し、<金嬉老>と連帯しうる人々(外国人であれ日本人であれ)を攻撃している人たちこそ、明日にでも強制送還されかねない「最前線の外国人」の人間性を冒涜していることに気づくべきである。

(次回に続く)

*1:てか「はてな」のが牢獄だったか。このシリーズが終わったら引っ越します。

*2:金嬉老公判対策委員会

*3:時間の無駄(エネルギー・ロス)

*4:梶村秀樹、『梶村秀樹著作集 第六巻 在日朝鮮人論』、明石書店、1993年、p.370

*5:例えば、鈴木のような人間にとってはそうである。鈴木は、自身が関わるNPO/NGOが、「善良」でないことが「判明」した外国人への支援を打ち切ったことについて、さも当然のことであるかのように、本書で述べている。

日本人原理主義下等(4)

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(4)外国人を監禁する同化の無限階段

 鈴木は、本書の第三章「男性長期非正規滞在者の就労実態」で、1981年12月から1993年2月までに初来日した男性非正規滞在者28名(国籍別の内訳は、バングラデシュ10名、フィリピン7名、パキスタン2名、韓国5名、イラン・中国・ビルマ・ネパールがそれぞれ1名ずつ)に対して聞き取り調査を行い、第四章「社会構造と男性非正規滞在者の就労行動」で、その結果を分析している。以下に鈴木の分析結果を引用する(強調は引用者による。以下同様)。

 男性長期非正規滞在者の就労の通時的変化を分析した結果、彼らが、出身国のいかんを問わず、日本での就労や生活において蓄積した資源を活用して、社会構造に対して能動的に働きかけ、職場や労働市場での彼らの評価を高めているということが明らかになった。もはや彼らは、初期の調査研究において描かれたような、特段の技能や技術を必要としない仕事を担う安価な労働者でもなければ、職業選択の自由をまったくもたない受動的な労働者でもない。賃金だけを基準に頻繁に転職する労働者でもなければ、解雇されやすい労働者でもない。*1

 換言すれば、職場や労働市場における上昇移動という彼らの変化は、さまざまな社会構造との関係において実現したともいえよう。日本社会で、合法的な滞在資格をもたない彼らが、地位を上昇させたり安定化させることができたのは、本人の主体的な努力に加えて、彼らを受け入れ、その存在を承認してきた職場や地域社会、彼らの労働力を必要とした雇用主、さらには、それらを可能とした公的空間における非正規滞在者に対する黙認・放置があったからこそである。*2

 では、鈴木の言う、非正規滞在者による「社会構造」に対する「能動的」な「働きかけ」、「本人の主体的な努力」とは何を指すのだろうか。これまでの流れからすれば当然のことながら、それは日本社会への「能動的」かつ「主体的」な同化ないし親日化への「努力」を意味している。

 日本で働き、生活していくなかで、彼らは次第に日本社会のしくみやルールを理解し、日本人とのつきあい方を学んでいく。長く非正規滞在者と接してきたA.P.F.SのY氏は、「年月のなかで、外国人もかなり『スマート』になっていった。日本のシステムや日本語を学び、社長の傾向を読んでたちふるまいができる者も増えてきた」と語っている。長期非正規滞在者は、自身が働き、生活している社会のなかで、どのような行動が好ましいとうけとめられるかということを知り、日本社会で生きていくためのふるまい方を身につけていったのである。*3

 日本で働き生活するなかで、日本人とつきあい、日本社会について学び、日本が好きになっていくことによって、彼らの生活にも変化が生じる。お金を稼ぐことを目的としながらも、次第に、日本での生活を充実させたいと思うようになっていく。

滞在が長期化し、次第に母国に帰るという気持ちが薄れ、日本での生活の充実や継続を志向するようになった非正規滞在者は、もはや、単なる「都合のいい労働力」ではない。日本での生活を楽しもうとする意識は、仕事に対する彼らの選択基準に変化をもたらす。滞在の長期化にともなって入職経路が多様化したこともあり、非正規滞在者たちは、仕事内容ややりがい、勤務時間や勤務場所など、賃金以外の基準を総合的に判断して仕事を選ぶようになる。滞在が長期化するなかで、非正規滞在者の「存在の根拠」は、次第に、母国から受入れ国である日本に移っているのである。*4

 こうした論理からすれば、日本で働き生活するなかでも、「日本人とつきあい、日本社会について学び、日本が好きになっていく」ことのない非正規滞在者や、日本よりも母国に「存在の根拠」がある(と日本国家/日本人が見なす)ような非正規滞在者は、「単なる「都合のいい労働力」」であり、人間として扱う必要は特にない、ということになる。非正規滞在者の「存在の根拠」を母国と日本の二者択一でしか測ろうとしない日本国家/日本人の発想が、国境をまたぐ生活圏に生きる外国人の実相を切り捨て、排除と同化を合理化する論理に行き着くことは言うまでもない。

 本書を読みながら、ふいに、Goo-Shun Wangという学生が製作した「Hallucii」(ハルク・ツー)という作品を思い出した。Halluciiは、エッシャーの無限階段に閉じ込められた空間を描いた4分弱の映像で、YouTubeからも見ることができる。非常にうまくできている作品なので、動画を見られる方はぜひ一度覗いてみてほしい(以下ネタバレを含む)。

 Halluciiが興味深いのは、無限階段という錯視世界を作り出し、そこに人を閉じ込めているものの正体が、複数の監視カメラである、ということだと思う。Goo-Shun Wangがどのような意図を持って作品を作ったかはわからないのだが、私には、この作品が、あたかも外国人を孤立させて監禁する、同化の無限階段であるかのように思えてきたのである。もちろん、ここで言う監視カメラとは、日本人の「まなざし」のメタファーである。

 レイシズムが社会の基調をなす日本社会では、外国人にとって、同化とは終わりのない自己否定であり、差別への果てしない隷属を意味する。日本国家/日本人は、外国人一人一人に対して、自らが作り出す同化の無限階段を、たった一人で昇り続けることを強いているようなものだ。ときには「敵対的なまなざし」で外国人を射抜き(保守)、ときには「好意的なまなざし」で外国人を見守り(リベラル)ながら、日本国家/日本人は、外国人に同化の序列をつけ、外国人の階層(「カースト」)化を進めていく。

 無限階段に閉じ込められた酔っ払い氏がそこから脱出できた*5のは、無限階段の世界における論理の無力さを思い知り、いわばキレる形で監視カメラを破壊することができたからである。一方、同化の無限階段においては、日本人原理主義が論理を絡め取る、その不条理を誰よりも痛感している外国人の手には、監視カメラを一撃で粉砕してくれるようなビール瓶はない。それどころか、外国人がただ監視カメラを睨みつけたり、その場に立ち止まったりすることさえ、日本国家/日本人は「反日」であると表象しようとするのである。

 こうした構造はまさに不正義の権化としか言いようがないが、鈴木も坂中と同様に、(日本人が政府やメディアに騙されやすいと鈴木が考えていることも含めて)基本的には日本社会の「善良」さに疑いをいだいていない。そのため、日本社会が外国人に対してするべきことは、自らの排外主義を批判的に解体することではなく、むしろそれを無自覚に温存したまま(それは問題ではないのだから)、外国人を親日化に「優しく」導いてやることだということになる。

 また、本国人である日本人とのつきあいは、見知らぬ国で働く彼らにとって、単に仕事を紹介してもらうだけではなく、日本の賃金水準や職場慣行についての情報や助言をえるという点でも大きな役割を果たしている。

 加えて、日本人とのつきあいは、非正規滞在者の生活面でも、重要な意味をもっている。休みを一緒に過ごす、困ったことを相談する、家を借りる際の保証人になってもらうなど、日本人との交流によって、非正規滞在者の日本での生活はより豊かなものとなる。その結果、仕事の充実度が増すとともに、日本での生活を楽しむことによって、日本が働くためだけの場所ではなくなり、帰国が延期され、滞在が長期化する要因にもなっている。

 さらに、非正規滞在者が働き生活している地域において、匿名の外国人ではなく、△△出身の「○○さん」という名前をもった「顔の見える存在」になることによって、ホスト住民が抱くかもしれない漠然とした不安は軽減され、彼ら自身にとって、安心して暮らすことができる場所となる。近隣住民と顔見知りになり、あいさつをかわしたり、親しくつきあうことによって、非正規滞在者は、通報リスクを低下させることが可能になる。日本人とのつきあいの進展・拡大によって、非正規滞在者は、安定した就労や生活の場を日本社会に築くことができたのであった。*6

 外国人の自己決定権(主体性)を認めようとしない制度的・社会的差別をさほど問題だと感じていない鈴木が思い描く、「善良」な日本人と「善良」な外国人とのあるべき関係性がよくわかるというものである。後半にいたっては、「外国人を見たら通報しよう」などという、「在日特権を許さない市民の会」ですら、さすがに言い出せないようなレイシスト的発言さえ擁護され、外国人が日本人レイシストに通報されるのは、レイシストが抱く「漠然とした不安」を思いやることができなかった外国人の自業自得だということになってしまう。まるで論理のターミネーターである。

 さらに恐ろしいことに、鈴木は、本書の執筆時点ですでに、インタビューイー28名のうち、少なくとも10名が実質的に強制送還されたことを明かしているのである。よくもまあ、「日本人とのつきあいの進展・拡大によって、非正規滞在者は、安定した就労や生活の場を日本社会に築くことができたのであった」などと白々しい考察ができるものだと思う。極端な話、日本人さえいなければ、「非正規滞在者の日本での生活はより豊かなものとなる」のではないか。

 ただ、おそらく鈴木にとっては、インタビューイーが強制送還され、新たな在留管理制度関連法によって、非正規滞在者が住民基本台帳から除外され、母子保健や教育といった最低限の行政サービスからも排除されてしまう現状があるからこそ、かれらがいかに日本社会に適応し、「国益」に適う「善良」な存在であった(ある)かをアピールすることが、喫緊の課題となっているのだと思う。そして、そのために日本社会のリベラルな日本人原理主義化(鈴木自身は単に「リベラル化」と認識していると思うが)をいっそう推進しようとしているのだと思われる。外国人を同化の無限階段に監禁しながら、外国人への「支援」を云々するような欺瞞に対しては、誰よりも先に日本人こそがビール瓶を投げつけなければならない。

(次回に続く)

*1:鈴木江理子、『日本で働く非正規滞在者―彼らは「好ましくない外国人労働者」なのか?』、明石書店、2009年、p.488

*2:同上、p.489

*3:同上、pp.446-447

*4:同上、p.241

*5:実は脱出できていないという話もあるが。

*6:同上、p.446