日本人原理主義下等(8)

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(8)ニーメラー牧師の訴えは日本人マジョリティに届くか?

 以上長々と書いてきたが、本書を通じた日本人原理主義左派に対する批判はひとまず終わりにする。本章では、これまで取りこぼしてきた点について、いくつか述べてみたい。

 鈴木が「外国人問題」に関する基本的な認識において入管とマスター・ナラティブを共有していることは(2)で論じたが、鈴木は労働問題に関する基本的な認識においては企業経営者とマスター・ナラティブを共有してさえいる。もういちいち驚くのも疲れるほどだが、(一応)驚くべきことに、鈴木は日本企業が非正規滞在者を搾取しているとは必ずしも考えていないようなのである。鈴木はその理由として以下の事柄を挙げている(強調は引用者による。以下同様)。

 以上、雇用されている労働者の側から賃金をみてきたが、雇用主側からみた非正規滞在者の雇用コストはどうであろうか。非正規滞在者の場合、基本的に社会保険や労働保険などの法定福利費から排除されており、また、派遣や業務請負を通じて働くことの多い日系南米人と異なり、直接雇用が多く、派遣会社や業務請負会社に斡旋手数料を支払う必要がないことから、企業にとって雇用コストが安いと考えられがちである。しかしながら、稲上や五十嵐による調査によっても指摘されているように、住居の提供、家財道具や電化製品の貸与、病気や災害事故の際の対処など、賃金以外のコストがかかる場合も少なくない(稲上他1992:82-87; 五十嵐1999a:6)。本調査の非正規滞在者がこれまで働いた会社でも、会社側が住居を用意することも多く、光熱費も含めて無料である場合もある。加えて、行動が制限されている彼らのために、休みごとに観光に連れ出したり、近所の人との関係に気を配るなど、「不法」ゆえにかかる特別な「コスト」を考慮にいれると、受け取っている賃金だけで「安価な労働者」かどうかの判断を下すことはできない。加えて、「オーバーステイを雇うのは、賃金の安さとばれた場合のリスクとの兼ね合い」と神奈川シティユニオンのM氏が指摘するように、不法就労助長罪で法的処罰を受けたり、元請けから仕事を回してもらえなかったりするリスクも、非正規滞在者を雇う場合の広義のコストであるといえよう。*1

 ・・・・・・「広義のコスト」とやらは、すべて本人に本来支払われるべき賃金から捻出されていると思うのだが(「会社側が住居を用意することも多く、光熱費も含めて無料である場合もある」というのは、単に本人名義で契約ができないから会社が代行しているだけだと思うのだが)・・・・・・。というか、素朴に疑問なのだが、鈴木はこんな本を世に出して、いったい何がしたいのだろうか?これが確信犯ではなく、単なる天然だとしたら(そしてそんな気がするが)、本気で恐怖を感じるのだが・・・・・・。

 言うまでもないが、鈴木の論理によれば、女性の賃金が男性と比べて安い(女性の約54%が非正規労働者として、正規男性の約40%の低賃金で働いている)のも、企業が「「女性」ゆえにかかる特別な「コスト」を考慮にいれ」ているからであり、企業が「女性差別で法的処罰を受けたりするリスクも、女性を雇う場合の広義のコストである」などとして、摩訶不思議にも正当化されかねない。

 ちなみに、鈴木がインタビューをした非正規滞在者28名のうち、実に11名が労働災害に遭っているが、そのうち7名は雇用主との関係が悪化することを恐れて労災を申請できず(うち6名が転職し)、労災を申請できた4名も全員が治療後に離職している。これで「病気や災害事故の際の対処など、賃金以外のコストがかかる場合も少なくない」などとよくも言えたものである。日系南米人を露骨に物扱いする以下の文章からもわかるように、鈴木は、外国人を使い捨てにする経団連的価値観に、すっかり順応しきっているようである。

 業務請負業者の管理のもと、企業の需要に応じて、柔軟に職場を、時に生活の場までも変える日系南米人は、企業にとって、労働力の「Just-in-Time-System」を実現する理想的な選択肢の1つであり、日本経営者連盟による「雇用ポートフォリオ」で示された「雇用柔軟型従業員」の有用な供給源として構造化されつつある。*2

 「外国人を使い捨てにするためのコスト」を語る鈴木が、「外国人問題」におけるリベラルな論者として通用する(と思われる)ような、日本の外国人「支援」運動の水準は、どう考えても誉められたものではないだろう。

  • 日本人の加害性を省みない外国人「支援」運動?

 本書を読んで改めて実感したのは、日本人の加害性を省みない外国人「支援」運動が、いかに際限なく堕落していくか、ということである。こうした例は枚挙に暇がないと思うが、個人的な体験から一つ挙げると、私は、ある難民と関わるなという「忠告」を、NPO/NGO関係者*3から受けたことがある。

 要約すると、その難民は「精神的に不安定で、日本に適応する努力もしていないので、わざわざ関わる価値はない」ということであった。まったく心底うんざりしたが、黙っているわけにもいかないので、「日本社会のせいで身動きできなくなってる人たちを、他人事のように切り捨てておきながら、支援者ぶるのは都合がよすぎないか」と文句を言ったところ、「あなたのためを思って言ってるのに・・・」(こんなところにも「善意」が!!!!!!!!!!)などと返されて、まったく話が噛み合わなかった*4

 ところで、鈴木らリベラルな日本人原理主義者にとっては、日本人による在日外国人「支援」運動は、どこにも終わりがないとも言えるし、どこにでも終わりがあるとも言える。こうした連中からすれば、外国人が日本人と完全に平等になることはありえないのであり、まさにそれゆえに日本国家/日本人が外国人に「恩恵を与える」プロセスにも終わりがないのである。

 一方、運動に明確な到達点がないということは、どこにでも便宜的に終わりを設定できるということでもある。例えば、当該外国人が在留特別許可を取得することが、あたかもハッピーエンディングであるかのように(日本人によって)語られる場合がそうだろう。けれども、在留特別許可それ自体が、外国人を選別し、外国人コミュニティを分断支配する道具として使われていることを、どれだけの日本人が知っている――あるいは知ろうとしている――だろうか?(4)で「外国人を監禁する同化の無限階段」について書いたが、実はこうした外国人「支援」運動もまた、エッシャーの無限階段をなぞっているのである。

  • ニーメラー牧師の訴えは日本人マジョリティに届くか?

ナチス共産主義者を攻撃したとき、自分はすこし不安であったが、とにかく自分は共産主義者でなかった。だからなにも行動にでなかった。次にナチス社会主義者を攻撃した。自分はさらに不安を感じたが、社会主義者でなかったから何も行動にでなかった。それからナチスは学校、新聞、障害者、ユダヤ人等をどんどん攻撃し、そのたびに不安は増したが、それでもなお行動にでることはなかった。そしてナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であったから行動にでた。しかし、そのとき自分のために声を上げてくれる者はいなかった。(マルティン・ニーメラーナチスに抵抗したルター派牧師)

 外国人排斥を許さない6・13緊急行動:「【最新版】外国人排斥を許さない6・13緊急行動への参加・賛同の呼びかけ」
 http://613action.blog85.fc2.com/blog-entry-6.html

 上の呼びかけ文を読んだときに、何となく気になってそのままにしてしていた疑問がある。日本人マジョリティは果たしてナチス・ドイツ政権下の牧師たりえるのだろうか?ニーメラー牧師の告白は、マイノリティ同士の連帯を訴えるには至言であると思うが、排外主義が台頭する現代日本において、日本人マジョリティは、まさにナチスではないにしてもその支持者たちなのではないだろうか?

 もちろん、自らもいつかは「かれら」に攻撃される側になりうるという想像力をもって、抑圧されている他者のために立ち上がることは、実に倫理的な選択であると思う。けれど、日本人としてはこの場合、自らもいつかは「在日特権を許さない市民の会」らに攻撃される側になりうるという想像力をもって、外国人のために立ち上がるよりは、自らが生まれたときから外国人に対する差別者であるという認識をもって、自分自身のために立ち上がろうとする方が、より倫理的な姿勢なのではないだろうか?単純に言えば、「いつか自分もいじめられる側になるかもしれないから、いじめと闘う」のではなく、「いま現在自分がいじめに加担しているからこそ、いじめと闘う」と日本人は断言するべきではないだろうか?

 日本人が自らの加害性を引き受けることを(多かれ少なかれ)回避している限り、日本人が在日外国人と真に連帯することは不可能だろう。戦後補償がそうあるべきであるように、排外主義との闘いは、自分自身の拠って立つ足場を崩すところから始めなければならないのではないか。

(次回に続く)

*1:鈴木江理子、『日本で働く非正規滞在者―彼らは「好ましくない外国人労働者」なのか?』、明石書店、2009年、pp.328-329

*2:同上、p.470

*3:例によって、友人を「支援」していると自称する連中の一人である。

*4:こう書くと、極端な例ばかり脚色してあげつらっているのではないか、と思われるかもしれないが、あいにく残念ながらそんなことはない。