「対新自由主義戦争」とは何か(1)

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 以下目次。適宜更新します。【5/6 更新済】

  1. はじめに
  2. 「対新自由主義戦争」は普遍的な反・新自由主義ではない
  3. 私たちの食卓の代償。あるいはソマリアの「海賊問題」
  4. 「対新自由主義戦争」という戦争
  5. 「対テロ戦争」の鏡像としての「対新自由主義戦争」
  6. 「対テロ戦争」の触媒としての「対新自由主義戦争」
  7. 改憲へのショートカット
  8. おわりに

1.はじめに

 前回の記事に出てきた「対新自由主義戦争」という現象について説明していきたい。始めに断っておくが、私は新自由主義には明確に反対だし、いわゆる反貧困には強い共感を持っている。だから、ここでいう「対新自由主義戦争」とは、「反・新自由主義」あるいは「反・貧困」の立場に立つ運動体そのものを指すわけではない。

 ただし、後述するように、反・新自由主義あるいは反・貧困運動を総体的に捉えるとき、部分的に「対新自由主義戦争」への変質あるいは変質の衝動が色濃く見られることも、また否定できない。もちろん、反・新自由主義あるいは反・貧困運動に関わっている人たちの中には、そうした流れを厳しく批判し、「対新自由主義戦争」への参加を拒む人々もいる。けれども、そうした運動に関わるより多くの人々と、運動に直接関わっていない世間一般の人々は、「対新自由主義戦争」を忌避しようとはせず、むしろ自ら進んでそれに呑み込まれようとしているように思う。

2.「対新自由主義戦争」は普遍的な反・新自由主義ではない

 「対新自由主義戦争」を一言で説明すれば、それは反・新自由主義あるいは反・貧困運動のダブルスタンダード版であると言える。それがダブルスタンダードであるかどうかは、以下の2点によって簡単に判定できる。

 第一に、もしも、あなたが新自由主義に普遍的に反対しているなら、日本国内の貧困および格差社会という新自由主義的現象に対してだけでなく、日本が世界(特に第三世界)に押しつけている新自由主義およびその結果として「先進国」「途上国」間に生じている気の遠くなるような格差に対しても、それをなくすよう主張しなければならない。第二に、もしも、あなたが反貧困を普遍的に訴えようとするなら、日本人の貧困だけでなく、(平均的に見て日本人よりもはるかに劣悪な生存状況に置かれている)在日外国人の貧困にも目を向けなければならない。

 上記の2点を満たさない運動は、一見それが反・新自由主義あるいは反・貧困を掲げており、また当事者や第三者にそのように受け取られるものだとしても、普遍的に反・新自由主義あるいは反・貧困を訴えているわけではない。そうした運動は、「われわれ」にとって不都合な新自由主義あるいは貧困にのみ反対し、「われわれ」にとって都合のよいそれに反対しようとしない点で、疑いようもなくダブルスタンダードである。

 これは、倫理観の問題というよりも、単なる論理の帰結にすぎない。言い換えれば、もしも、あなたが日本国内にはびこる新自由主義に反対する一方で、日本が世界にはびこらせている新自由主義には沈黙ないし賛同していたり、国民のためのセーフティーネットの充実化を主張しながら、元よりセーフティーネットから排除されている在日外国人に対して国民と対等な権利を認めようとしないなら、それは普遍的な反・新自由主義あるいは反・貧困ではなく、単にご都合主義の「反・新自由主義」あるいは「反・貧困」を唱えているだけなのである。

 以上の理由と後で述べる理由から、このダブルスタンダード版の「反・新自由主義」あるいは「反・貧困」を、私は「対新自由主義戦争」と名づけることにする。なぜ「戦争」という表現を用いているかは後述する。

3.私たちの食卓の代償。あるいはソマリアの「海賊問題」

 「対新自由主義戦争」のダブルスタンダードぶりを実証する具体例はありふれているが、ここではソマリアの「海賊対策」の問題を例にとって考えてみたい。

 小林アツシさんが指摘しているように、ソマリアの「海賊」問題とは、海賊ではなく「私たちの」問題である。1991年から「内戦」*1が続いているソマリアの海域では、国内の混乱に乗じて、欧米や日本の漁船が大規模な密漁(違法)や廃棄物の投棄(違法)を繰り返していた。まさに、私たちの食卓に安価なマグロやエビが並ぶことの代償として、ソマリアの漁民は収入源を失い、生き延びるために「海賊」になったのである。

夜、ソマリアの海は、たくさんの漁船団の灯火によって「マンハッタンの夜景のように見える」とは、ソマリアの漁業専門家の言葉である。これらの船団の国旗は、EU諸国と米国、日本のものだ。
―中略――――
海賊たちは、日本を含む先進国がそれまで乱獲してきた漁業資源の代金回収と、廃棄物投棄の迷惑料を暴力的な方法でやっているともいえる。

 あつこばのブログ:「海賊とは?」
 http://atsukoba.seesaa.net/article/113146297.html

 そして、ひとたび「海賊ビジネス」が成立した以上、あるいは「海賊ビジネス」を立ち上げてそこから利益を生むために、ハートセキュリティ社のような民間軍事会社が「海賊」に研修をする、といったようなことが行われるようになる。

 あつこばのブログ:「「海賊は元漁民ではない」という主張」
 http://atsukoba.seesaa.net/article/114158332.html

 つまり、ソマリアの「海賊問題」とは、グローバリゼーションの問題であり、私たちがかれらに押しつけている新自由主義の問題である。私たちは「かれらの海賊問題」を裁くことはできない。なぜなら、かれらを「海賊」に仕立て上げている自覚なき責任者である「私たちの海賊問題」こそが、真に裁かれるべき対象だからである。

4.「対新自由主義戦争」という戦争

 2009年3月14日、日本政府はソマリア沖に海上自衛隊を派遣した。伊勢崎賢治は、ソマリアへの自衛隊派遣を国民の圧倒的多数が支持していることについて、次のように語っている。

 今、当たり前のように、メディアや政治家は、「日本の船を襲う海賊だから取り締まるのは当たり前。我が国の国益のために自衛隊が出て行くのは当然」といった論調です。そして世論調査によると、9割の人が今回の派遣については、「賛成」もしくは「海賊だから仕方ない」と思っているそうです。一方で、憲法9条改憲についての世論調査では、6割の人が9条は守った方がいいという数字が出ていると聞きます。ということは、9条護憲だけど、今回のソマリア沖の海自の派遣には賛成、という人がかなりの数、いるということになります。そのような人は、いったいどういう考えなのか。私にとって、国家主義的なゴリゴリの改憲派よりも意識が遠い人たちに感じます。

 マガジン9条:「9条は日本人には”もったいない”」
 http://www.magazine9.jp/other/isezaki/

 けれども、「護憲」の立場に立ちながら「国益」のための自衛隊海外派遣を容認することと、「反・新自由主義」あるいは「反・貧困」の立場に立ちながら「国益」のための新自由主義政策を是認することは、いまや圧倒的多数の国民の意識の中にむしろ矛盾なく同居しているのではないだろうか。反・新自由主義あるいは反・貧困を普遍的に訴える立場から、自衛隊ソマリア派遣に反対しようとする声は、運動内に一体どれだけ存在したのだろう。

 国益」を軸にした「反・新自由主義」あるいは「反・貧困」は、「先進国」または日本人としての生活水準を維持し、「先進国」「途上国」間または日本人外国人間の格差を永久的に固定化するための暴力(構造的暴力を含む)を例外なく必要とする。そして、まさに絶えざる暴力を必要とする点で、「国益」を軸にした「反・新自由主義」あるいは「反・貧困」は、「対新自由主義戦争」という「戦争」として名指すことが相応しいと考える。

 さらに、既存の反・新自由主義あるいは反・貧困運動の中には、もとより「国益」論的価値観*2を自明視するものから、当初は批判していた「国益」論的価値観に次第に(あるいは急激に)傾斜し、それを合理化しようとするものまであり、すでに――あるいは将来的に――「対新自由主義戦争」を担っている(担っていく)動きがある。つまり、(自覚的であれ無自覚的であれ)国民さえ貧困でなければそれでよいとする排外主義としての「反・新自由主義」あるいは「反・貧困」を唱える立場である。

 (後半に続く)

*1:「内戦」の背後には例によって「先進主義諸国」がいるのだが、勉強不足のため現時点ではうまく論じられない。

*2:「日本人がこんなに貧困であってよいはずがない!(アフリカやアジアじゃあるまいし)」というような「素朴」なナショナリズムなどがその典型