「対新自由主義戦争」とは何か(2)

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 以下目次。適宜更新します。【5/6 更新済】

  1. はじめに
  2. 「対新自由主義戦争」は普遍的な反・新自由主義ではない
  3. 私たちの食卓の代償。あるいはソマリアの「海賊問題」
  4. 「対新自由主義戦争」という戦争
  5. 「対テロ戦争」の鏡像としての「対新自由主義戦争」
  6. 「対テロ戦争」の触媒としての「対新自由主義戦争」
  7. 改憲へのショートカット
  8. おわりに

5.「対テロ戦争」の鏡像としての「対新自由主義戦争」

 「対新自由主義戦争」がどのようなものであるかということは、「対テロ戦争」との比較において、最もうまく捉えることができると思う。

 「テロとは他者が『われわれ(米国)』に対して行う行為であり、『われわれ(米国)』がどんなに残虐なことを他者に行っても『防衛』や『テロ防止』と呼ばれる」 というノーム・チョムスキーの言葉に倣って言えば、「新自由主義とは他者が『われわれ(日本)』に対して行う行為であり、『われわれ(日本)』がどんなに他者を貧困に陥れても『自由貿易の推進』や『(格差を是正するための)経済支援』と呼ばれる」のである。まさに「「対テロ戦争」の核心には「テロ」の馬鹿げた定義がある」ように、「「対新自由主義戦争」の核心には「新自由主義」の馬鹿げた定義がある」と言える。

 また、「対テロ戦争」が国内の治安(セキュリティ)の強化を訴えることで国民の統制を図ろうとするように、「対新自由主義戦争」は国内の社会保障(ソーシャル・セキュリティ)の強化を打ち出すことで国民の統合を進めようとする。どちらも外国人の人権が眼中にない点で同じである。

「移民国家」なるものが人が足りない時には外国人「移民」でこれを補充し、日本人が不安にならないように徹底的に日本語教育を施すが、ひとたび景気が悪くなって日本人と競合するという妄想が社会を覆ったときにはさっさと帰っていただく、という非常に手前勝手なものであることだけは明らかだろう。

 日朝国交「正常化」と植民地支配責任:「厚生労働省の「日系人」失業者追放策」
 http://kscykscy.exblog.jp/10834111/

 そして、「対テロ戦争」が「われわれ」による物理的・構造的暴力を棚に上げて、「暴力的なテロリスト」を一掃しようとするように、「対新自由主義戦争」も「恩知らずな在日」や「海賊」を容赦なく叩きのめそうとする。麻生首相はソマリアの「海賊」行為を「人類共通の敵」と述べたそうだが、これなどは「テロ」が「人類の敵」であるとしたブッシュの発言そのままである。

 ところで、ここで一つ注意しておかなければならないのは、「われわれ」自身が行使している暴力を棚に上げて「かれら」を非人間化しようとする、こうした歪んだ価値観の浸透は、何も「対テロ戦争」によって突然始まったわけではないということである。それは明治以降の日本人の差別的な朝鮮観の上に培養されたものであり、したがって現代日本のメンタリティに極めて適合的な価値観であるとさえ言える*1

 例えば、近代日本の代表的知識人とされる新渡戸稲造*2は、1906年の朝鮮訪問時に「枯死国朝鮮」という旅行記を書き、朝鮮民族を「彼等は有史前期に属するものなり」とする「ウルトラ停滞史観」*3を臆面なく披露している。中塚明が指摘しているように、日清戦争時に抗日闘争を繰り広げた東学農民軍は、新渡戸にとってはまさに「暴徒」にすぎなかったのであり、こうした朝鮮観が新渡戸ら知識人を始め、日本政府、さらには一般の日本国民にまで蔓延していたことと、日本軍が抗日闘争に参加した(子どもや女性を含む)農民を皆殺しにしたことは、表裏一体の関係にある。 

日本の外交資料館には、『韓国東学党蜂起一件』などのファイルがあり、たくさんの記録、交信された電報などがあります。しかし、朝鮮の抗日の動きは、そのほとんどを「東学党」によるものとし、しかも「東学党」なるものは、「清国兵の使嗾」(清国にそそのかされている)によるものとか、大国(ここではさしずめ清国)に左右されている「事大主義」(弱いものが強いものにしたがっていいなりになっている)だとか、陰で大院君があやつっているとか、あるいは「東学党とか義兵とかいっているが、実は無頼の窮民(貧乏にあえいでいる無法なものども)にすぎない」というものばかりです。*4

 対テロ戦争」であれ「対新自由主義戦争」であれ、その根底にある、「かれら」を徹底的に非人間化し、歴史の客体として貶めようとする思想は、近代以降の日本人の朝鮮観なしには、ここまで無防備に日本社会を覆ってはいなかっただろう。言い換えれば、日本人が差別的な朝鮮観を克服することなく(むしろそれを増幅しさえしながら)ここまで来てしまったことのツケが、自らの暴力と他者の尊厳に対する不感症――DV加害者のメンタリティ――を日本社会にはびこらせ、「対テロ戦争」や「対新自由主義戦争」への抵抗力を奪う結果となって現れているのではないか。

 そして、後述するように、自らのこの差別的な朝鮮観に向き合おうとしない護憲論は、倫理的に間違っているだけでなく、戦略的にも正しくないのである。

6.「対テロ戦争」の触媒としての「対新自由主義戦争」

 ところで、当たり前のことだが、「対新自由主義戦争」と「対テロ戦争」には違うところもある。したがって、「対新自由主義戦争」には反対だが「対テロ戦争」には賛成という立場もありえるし、その逆に「対新自由主義戦争」には賛成だが「対テロ戦争」には反対という立場もありえることになる。

 けれども、「リベラル・左派」の一部が現在取っていると思われる「対新自由主義戦争」には賛成だが「対テロ戦争」には反対という後者の立場は、「対新自由主義戦争」にも「対テロ戦争」にも賛成という排外主義的強硬論に包摂されていく可能性が極めて高い。すでにその兆候はいたるところに散見される。以下に両者の賛否をめぐる4つの立場を見ていこう。

 (1)「対新自由主義戦争」にも「対テロ戦争」にも賛成という立場

 一言でいえば排外主義的強硬論であり、佐藤優を代表的イデオローグとする立場。「格差と戦う保守」や、「国益」を軸とした格差社会反対論を唱え、北朝鮮への武力行使を容認し、ソマリア沖への自衛隊派兵を受け入れる「リベラル・左派」などがここに含まれる。『週刊金曜日』などはもうここに位置づけるのが無難かもしれない。

 (2)「対新自由主義戦争」には反対だが「対テロ戦争」には賛成という立場

 経団連に代表される支配階級・上流階級の立場であるが、「国益」論的価値観と「自己責任」論*5を内面化した国民の中にも、階級を超えてこの立場を取っていた人々は少なくないと思われる。ただし、ここ数年の「国益」を軸とした格差社会反対論の高まりによって、その多くは(1)の立場に合流した(しつつある)と言えるかもしれない。

 (3)「対新自由主義戦争」には賛成だが「対テロ戦争」には反対という立場

 「テロ」の原因は貧困であり、「テロ」を根絶するためにも貧困問題(なぜか対象は国内・国民限定)に取り組まなければならないという立場。現在の「リベラル・左派」の一部が取っていると思われる立場だが、後述するように、いずれ(1)に併呑されていく可能性が高い。

 (4)「対新自由主義戦争」にも「対テロ戦争」にも反対という立場

 「国益」論的価値観による社会の統合・再編成に絶対的に反対する立場。外国人に国民と同等の権利を保障しようとする立場と言ってもよいかもしれない。したがって、本気で改憲を拒否したい人間は、この立場を取る以外にありえない。これついては後述する。

 私は、(3)の立場はいわゆる「トロイの木馬」的なものであり、この立場を取る「リベラル・左派」が確信犯でないとしても、結果として「対新自由主義戦争」を推進することによって「国益」論的価値観を国民一般によりいっそう浸透させ、「対テロ戦争」に反対する世論を弱体化する*6ことにしかならないと思う。

 イラクアフガニスタンへの自衛隊派遣には反対だが、「日本の船を襲う海賊」に対しては、自衛隊が「武力による威嚇又は武力の行使」や集団自衛権の行使をしても構わない(やむをえない)とする立場、あるいは、イラクアフガニスタンソマリア沖に自衛隊を派遣する金があるなら国内の貧困層に分配しろという立場は、「対テロ戦争」への参加が、「国益」の確保と、その帰結である(とされる)国内の社会保障の強化に欠かせないという(1)の立場には、まともに対抗できないだろう。

 エネルギー自給率が4%、食糧自給率が40%にすぎない日本が、今後も「先進国」としての生活水準を維持しようとするなら、海外に展開する日本企業による「途上国」からのさらなる収奪と、国内の外国人労働者からのいっそうの搾取が不可欠である。そして、そのためには、「途上国」の「安定」を確保するための自衛隊の海外展開と、国内の「治安」を維持するための外国人の管理体制の強化が求められることになる。

 新たな在留管理制度についてのQ&A
 http://www.repacp.org/aacp/

 「対新自由主義戦争」によって「対テロ戦争」があたかも克服できるかのような言説(「テロ」の原因は貧困であり、「テロ」を撲滅するためにも貧困問題に取り組まなければならないとする主張)は、そこで取り組まれる「貧困問題」が、あくまでナショナルな視点から捉えられ、世界的な貧困問題を拡大・再生産するものにしかならない点で、欺瞞そのものである。それにもかかわらず(というより、むしろそうであるからこそ、と言うべきだろうか)、こうした主張は今後も繰り返され、(1)の排外主義的強硬論に合流するための地ならしをする役割を担うのではないだろうか。つまり、「対新自由主義戦争」は、「対テロ戦争」の触媒としての機能を果たすことになると思われる。

 さらに言えば、(1)と(2)の間には、「(国民に対しては)そこそこの生活水準を保障する」という形で、近い将来において一定の妥協が(裏で)成立する可能性が高いように思う。けれども、その場合も、(1)はあたかも(2)が敵であるかのように振る舞い続けることによって、大衆の支持を取りつけようとするだろう。

 いずれにせよ、(3)から(1)への集団的な変節現象と、(2)と(1)の手打ちという、今後予測される事態によって、「対新自由主義戦争」にも「対テロ戦争」にも賛成という排外主義的強硬論が、近いうちに世論の多数を占めるようになるかもしれない*7イラクへの自衛隊派遣を横目に「やつらは日本を戦争のできる国にしようとしている!」という周回遅れの情勢認識を示していた『週刊金曜日』は、いまや佐藤優と手を取り合って「前衛」に躍り出たと言える。まさに新(転向)左翼の面目躍如といったところだろうか。

7.改憲へのショートカット

 ここまで見てきたように、いったん「対新自由主義戦争」に賛成してしまえば、そこから「対テロ戦争」を容認するまでは、あと数歩といったところにすぎない。もっとも、(3)の立場を取る「リベラル・左派」は、(1)の立場に転向するまで(のごく短い間)は、その数歩にすぎない違いを自他に向けてことさらにアピールしようとするかもしれない。けれども、「戦争ではテロは解決しない」といったような抽象的な一般論を掲げながら、自らが行使する構造的暴力と、それを可能にする差別的な世界観(その根底には差別的な朝鮮観がある)と具体的に対峙しようとしない「リベラル・左派」は、結局は「国益」という共通項によって、(1)との「共闘」を選ぶようになるのではないだろうか。

 さらに、改憲/護憲(反改憲)という問題から見てみると、「対テロ戦争」を容認する(1)と(2)の立場が改憲を合理化するものであることはもちろん、(3)の立場も申し訳程度に「国益」論的護憲を唱えつつ、いずれ(1)に包摂されていく可能性が高いのだから、実質的な護憲(反改憲)勢力として役に立つとは思えない。自分たちさえ損をしなければ、戦争や侵略をためらう理由がないからで、金光翔さんが「<佐藤優現象>批判」で的確に指摘している通りである。

 そもそも、改憲か護憲(反改憲)か、という問いは、以下の問いに置き直した方がよい。日本国家による、北朝鮮への武力行使を認めるかどうか、という問いだ。

 簡単な話である。仮に日本が北朝鮮と戦争した際、敗戦国となることはありえない。現代の戦争は、湾岸戦争にせよイラク戦争にせよ、アメリカ単独もしくはアメリカを中心とした多国籍軍対小国という、ゾウがアリを踏むような戦争になるのであって、ゾウの側の戦争当事国本国が敗北することは、一〇〇%ありえないからである。大衆は、マスコミの人間ほど馬鹿ではないのだから、そのことは直感的に分かっている。したがって、対北朝鮮攻撃論が「国民的」世論となってしまえば、護憲側に勝ち目は万に一つもない。

 護憲派が、あくまでも仮に、「護憲派ポピュリズム化」や、右へのウィング(これで護憲派が増えるとは全く思えないのだが、あくまでも仮定上)で「護憲派」を増やしたとしても(たとえ、一時的に「改憲反対」が八割くらいになったとしても)、対北朝鮮攻撃論が「国民的」世論ならば、そんな形で増やした層をはじめとした護憲派の多くの人々は「北朝鮮有事」と共に瞬時に改憲に吹っ飛ぶ。自分らに被害が及ぶ可能性が皆無なのだから、誰が見ても解釈上無理のある「護憲」より、「改憲」を選ぶのは当たり前である。

 私にも話させて:「<佐藤優現象>批判」
 http://gskim.blog102.fc2.com/blog-entry-1.html

 対テロ戦争」と対北朝鮮武力行使を容認することが改憲へのショートカットであるように、「対新自由主義戦争」を支持することも改憲へのショートカットを作成する。したがって、改憲への動きを本気でとめたいと思うなら、「国益」論的価値観と、それによる社会の統合・再編成を絶対的に拒否し続けなければならない。

 そして繰り返すが、国益」論の根底にある外国人(特に朝鮮人)に対する日本人の頑なな差別意識を問い、それを執拗に解体しようとし続けるプロセスを抜きにして、護憲(反改憲)派の主張が説得力を持つことはありえない。なぜなら、改憲へのショートカット――「対テロ戦争」や「対新自由主義戦争」を容認するダブルスタンダード――は、詰まるところ「かれら」に対する「われわれ」の差別意識に由来するからである。

 憲法9条が「60年以上にわたり、日本とアジアの人々の信頼関係の礎となってき」たというような護憲派の主張は、「アジアの人々」にとって受け入れがたいものであることはもちろん、当人でさえ本気で信じてはいない類の欺瞞であり*8、「憲法9条は沖縄の敵である」という批判にさえまともに答えられずにいる。

ラミス 「最近は、安保条約をまったく口にしないような、その部分にまったく触れないような護憲運動が存在しているようなんですね。9条が欲しいけれども米軍基地も必要だという、その動機はわからなくはないけれど、それは反戦平和運動とは呼べない。軍事力に守ってもらわないと不安だ、でも戦争をやるのは人に任せるということになりますね」

ラミス 「何年か前、東京で護憲運動をやっている女性が沖縄に来たので、車で案内したことがあります。米軍基地のそばに住宅が密集している場所を通ったんですが、それを窓から見た彼女は「私はあんなところには住めない」と言った。これは、非常に興味深い発言ですよね」

 「翻訳するならば、「私は基地のそばに住むなんていうことが我慢できないほど敏感で繊細な平和主義者である」ということ。でも、それを裏返せば、「どうしてあんなところに住めるの?」という、実際に住んでいる人たちへの軽蔑があるんだと思いませんか」

 「だけど、そもそもどうしてそこに基地があるかというと、日米安保があるからですよね。それを結んだのは沖縄の人たちじゃない。誰も沖縄の人に「安保条約を結んでいいか」と聞いたことはありません。すべてヤマトの人たちが決めたこと。だから安保の問題、基地の問題は、沖縄問題ではなくて日本の問題なんです」

 マガジン9条:「沖縄と9条と日米安保
 http://www.magazine9.jp/interv/lummis/lummis1.php

 もっとも、「憲法9条を持つ日本(人)」を理想化する護憲派の白々しい言説は、アジアからの軽蔑を買い、大衆をげんなりさせていただけでなく、実は当の護憲派にとってもたいして魅力的なものではなかったように思われる。自らの加害性に向き合わない護憲論が、ただでさえ欺瞞的な護憲派の「知性」をいっそう弛緩させる役割を果たしてきたことも、指摘しておかなければならないだろう。要するに、護憲派の多くは、実際のところ自分たちの唱える護憲論の薄っぺらさにうんざりしていたのであり、それが「変化」を求める欲求と相まって、<佐藤優現象>を下支えしているように思う*9

 さらに言えば、「リベラル・左派」の中には、もっぱら「自己実現」や自己満足のために平和や人権を謳っており、「かれら」の平和と人権を守ることなど心の底ではどうでもよいと考えている連中が決して少なくないことも、総体としての護憲(反改憲)派を腐らせている要因であると思う。そうした人々が平和や人権を語るのは、もっぱら理想的な自己イメージを自他に承認させるためであり、だからこそ、そうした自己イメージを容赦なく粉砕するようなマイノリティの鋭い*10問題提起にはまともに向き合おうとしないのである*11

8.おわりに

 以上、「対新自由主義戦争」について、とりわけ「対テロ戦争」との関連から、その特徴とそれがもたらす結果などを大まかに論じてきた。そして、改憲を拒否するためには、両者の枠組そのものを拒否し、自らの差別意識と謙虚に向かい合い、その飽くなき解体を続けようとする護憲(反改憲)論こそが、日本のリベラル・左派に求められる、ということを述べた。

 日本人マジョリティが自らの加害性を直視せずにすむ護憲(反改憲)論は、迫り来る改憲の歯止めにならないどころか、「国益」を軸とした社会の再編成を促し、改憲へのショートカットを作成しようとする点で、有害ですらある。改憲を本気で阻止しようと思うなら、改憲という論点を持ち出すまでもなく、外国人の人権を否定して恥じない「国益」論的価値観を根底から否定していかなければならない。

9.追記

 本文で取りこぼしたところをいくつか補足しておきたい。

(A)先進国の国民による越境プロジェクトとしての「対新自由主義戦争」

 新自由主義が「先進国」の支配層による国家を超えたプロジェクトとして推進されてきたように、「対新自由主義戦争」も先進国の国民による越境的なプロジェクトとして進められていく可能性が高い。金光翔さんが「レイシスト的保護主義グループ」と呼ぶ人々による「オルター・グローバリゼーション」(笑)である。

 私は、こうしたグループを、便宜上、「レイシスト保護主義グループ」と呼んでおきたい。それは、レイシスト的な表象に基づき、経済的保護主義を主張するグループである。昔風の、「社会排外主義」と呼ばれるものに近い。このグループは、民主党の支持勢力とかなり重なる、かつて「抵抗勢力」と呼ばれた業界団体や利権団体の支持を得ていると思われる。中心人物として、佐藤優山口二郎田中康夫中島岳志萱野稔人といった人物を挙げることができよう。

 そして、このグループは、韓国の同質の問題を含む運動体との「連帯」を表明したり、自分たちに追従する在日朝鮮人をグループに組み込んだりすることで、 自身の排外主義的主張への批判を回避しようとしていくだろう。

 私にも話させて:レイシスト保護主義グループの成立(1)
 http://watashinim.exblog.jp/9650470/

 あとは何となく「ホワイトバンド」を買ったり、フェアトレードを適当に持ち上げたりして、お茶を濁してみせるかもしれない。

(B)「シビリアンコントロール」を争点化する「リベラル・左派」のどうしようもなさ

 ところで、『週刊金曜日』が「護憲派のタブー」である(らしい)日米安保について積極的に語っているのは、ヤマトンチュが沖縄に米軍基地を押しつけているというダグラス・ラミスらの指摘に恥じ入ったからではなく、その逆に、「われわれ」の(領土であるところの)沖縄に米国が基地を押しつけている!許せない!という、加害者の被害妄想に憑りつかれているからだと思われる。ただし、沖縄の中にもこうした勢力とあえて癒着しようという動き(<佐藤優現象>)が見られることから、今後「リベラル・左派」に支配的な国防論は民主党路線と重なっていく可能性が高い。

 『週刊金曜日』も、今後は、米国からの相対的「自立」と、自衛隊シビリアンコントロール文民統制)を主要な争点に掲げることで、結局は米軍と自衛隊の一体化*12や、「厳格」なシビリアンコントロールにもとづく自衛隊の海外展開の必要性を主張するようになると思われる。

 あたかもシビリアンコントロールの徹底こそが最大の争点であるかのような、自衛隊をめぐるここ数年の「リベラル・左派」の議論は、シビリアンコントロールに反対しない右派および保守派への併呑を意味する点で、「リベラル・左派」の全面降伏と言ってよい。そもそも、シビリアンコントロールの不要性を唱える右派や保守派など、どこにいるのだろうか?かりにそうした勢力が存在するとしても、かれらが世論に与える影響など、無視できる程度にすぎない。シビリアンコントロールを争点化することによる右派や保守派との共闘は、有害である以前に無意味である。

 シビリアンコントロールを最大の論点として打ち出したがる「リベラル・左派」には、日本の侵略戦争の責任を軍部の暴走として片付けようとする本音が透けて見える。おそらく、朝鮮に対する植民地支配は特に問題なく【5/7 訂正】、現在にいたるまでそれを正当化しようとしている一般の日本国民は、戦争の犠牲者だった・・・ということにしておきたいのだろう。こんな甘えた認識で改憲に対抗できると思っているのだろうか?それとも端から対抗する気などないのだろうか?

*1:もちろん、明治以前の日本のアイヌや沖縄への侵略にその起源を求めることもできるだろうが、現代日本のあり方を大きく規定している日本の近代化が朝鮮侵略と同時に始まっていることは、いくら強調してもしすぎることはないと思う。

*2:福沢諭吉は論外

*3:田中慎一、「研究ノート 新渡戸稲造について」、『北大百年史編集ニュース』、第九号、1979年6月

*4:中塚明、『現代日本歴史認識―その自覚せざる欠落を問う』、高文研、2007年、pp.221-222

*5:言うまでもなく、「自己責任」論は「国益」論的価値観と極めて親和性が高い。

*6:もっとも、これ以上弱体化する余地があるというのは空恐ろしい話だが。

*7:すでにそうなっているという話もある。

*8:ただし、信じていることを信じている(信じようとはしている)かもしれない。

*9:もちろん、<佐藤優現象>を支える「論理」も辟易するほど薄っぺらなものだが、どうせ同じように薄っぺらなのだから、そうした連中が「時代遅れの左翼」を廃業して「今をときめく人民戦線」に飛びつこうとするのは別に不思議なことではない。

*10:正確には、マイノリティが鋭いというより、マジョリティが鈍いと言うべきだろうと思うが。

*11:マイノリティの主体性を認めようとしないことも同様。個人的体験の範囲でも、実はこうした「リベラル・左派」は、(理想の自己像の構築に不可欠な)マイノリティを必要とせざるをえないことの裏返しとして、(理想の自己像を突き崩しかねない)マイノリティの存在そのものを心の底では憎んでいるのではないか、と感じることさえある。

*12:「自立」に必要な「戦力」増強と米軍との協力は矛盾しないとかなんとか