日本人原理主義下等(7)

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(7)外国人に対する「善意」はどこから来てどこへ行くのか?

 これまで述べてきた理由から、私には「在日特権を許さない市民の会」ら日本人原理主義極右に批判の照準を合わせるつもりはまったくない。むしろ、「在特会」らに振り回されているうちに、外国人に対する管理体制の強化(例えば新たな在留管理制度関連法成立)や、在日朝鮮人に対する国家を挙げての人権侵害(最近では対朝鮮全面輸出禁止措置に伴う在日朝鮮人の郵便物の不許可など。これほどの民族差別が国家レベルでまかり通り、かつ圧倒的多数の国民がそれを容認する「民主主義国」を私は他に知らない。*1)に反対する声がますますか細くなっていくことを恐れる。

 これに関連して、最近の「在特会」の動きを見ていて思ったのは、かれらが、日本国家に戦争責任・戦後責任を果たさせようとする国外内*2の勢力に代表される、「国益」を損なう主張を体現している人々(在日朝鮮人を含む)を攻撃対象にしているのは、一方でレイシストとして基本に忠実なことがあるだろうが*3、他方で近年の「リベラル・左派」の変質――「国益」論的再編――に多かれ少なかれ気づいているからではないか、ということである。

 後者はあくまで個人的な推測だが、「在特会」らが職業柄(?)「リベラル・左派」の動きをマメに追っている*4ことを考えると、それほど的外れでもないと思う。おそらく、かれらは「サヨクは人権ファシストだ」などという決め台詞(?)とは半ば裏腹に、「リベラル・左派」の自壊と、それに伴って戦後補償を求める人々(「靖国解体企画」など天皇制国家の解体を主張する人々を含む)が孤立させられてきていることを、当の「リベラル・左派」以上に意識しているのではないだろうか。

 ここでは触れないが、実際、「在特会」らが誰を攻撃していないかを分析することは、かなり興味深い問題提起になるのではないかと思う。在特会」が執拗に攻撃を仕掛けている対象は、日本国家のイスラエル化に実効的に対抗しうる思想・運動の要であり、日本国内においては圧倒的少数派であるところの人々である。

 もちろん、「在特会」らの攻撃によって、「リベラル・左派」の団結が促進される面も一方ではあるのだから、戦後補償を求める人々をいっそう孤立させようとする「在特会」らの思惑は裏目に出るだけではないか、という反論もあるだろう。けれども、「リベラル・左派」の多くが、「在特会」らの「行き過ぎ」た行為に憤慨ないし憂慮を表明してみせるだけで、これを契機に、差別を禁止する国内法を制定し、改めて戦後補償運動に取り組むべきだといった主張を一向に打ち出そうとしない現状を見る限り、そうした反論も虚しいように思う。

 端的に言って、「在特会」らによる「慰安婦展」妨害を、表現の自由に対する侵害という抽象的レベルでしか批判できない「リベラル・左派」は、はなから勝負に負けているのである。これではせいぜい「在特会」らのヘイトスピーチの「自由」を具体的レベルで守って終わりだろう。

 話を本書に戻す。鈴木は、「外国人問題」という名の日本人問題を惜し気もなく見せつけてくれるが、その中でもとりわけひどいのが、外国人に対するパターナリズムである。鈴木は、第三章で非正規滞在者と「雇用主とのパターナリスティックな関係」*5について論じている(ちなみに鈴木は「非正規滞在という就労や生活に制約がある外国人の立場からすれば、パターナリスティックな温情を、素直にありがたく受け取っているようにも観察される」*6としている。いったいどこまでおめでたいのか。)が、鈴木を含むNPO/NGO関係者自身のパターナリズムについては一切言及していない。

 非正規滞在者に対する鈴木のパターナリズムを示す例は随所に見られるが、わかりやすい例として、NPO/NGOの活動を称える以下の発言を引いてみよう(強調は引用者による。以下同様)。

 そして、このようなNPO/NGOの活動に支えられることによってはじめて、「不法」という法的地位ゆえに権利が侵害されやすい非正規滞在者や「不法」就労者は、自らの権利を知り、その権利を行使することができたのであった。*7

 鈴木のいう「権利」が、非正規滞在者の基本的人権ではなく、日本国家が(NPO/NGOの日本国家への働きかけを受けて)かれらに対してごく限定的に保障している施恵的な「権利」であることは明らかだろう。事実、日本では、非正規滞在者に限らず外国人には生活保護を受ける権利すらない*8のだから、問題にすべきは、外国人が基本的人権さえ行使できない状況であるはずだ。外国人に日本人と同等の権利を保障することが日本人自身によって目指されていない限り、日本人が外国人に「自らの権利を知」らせるということは、結局のところ、外国人に対して「分をわきまえろ」と言うこととどう違うのか*9

 ちなみに、鈴木が同章でインタビューをしている韓国人労働者は、「来日直後、同じ済州島出身の女性に誘われて、神奈川県内の労働組合に加入したことから」、「日給は、16,000円(入社時14,000円)、残業代は時給1,500円で、平均月収は45万から48万円。有給もある」*10という環境を自ら勝ち取っている。けれども、こうした例を挙げるまでもなく、NPO/NGO関係者の「善意」がなければ、非正規滞在者が「自らの権利を知」ることも、「その権利を行使すること」もできない哀れな存在だというような鈴木の認識は、あまりにも外国人をコケにするものである。

 第一、日本人が外国人に対して「善意」やら「寛容」やらを発揮できるのは、そもそも日本人が外国人を制度的・社会的に無力な状態に貶めているからではないのか。こうした「善意」ないし「寛容」の基盤にある日本人原理主義を問わないまま、それらを手放しに礼賛することは、差別の無条件の肯定に他ならないだろう。本書は総じてNPO/NGOに対するナイーブな賛美に満ち溢れているが、こんな独善的な認識が、当事者である外国人にも共有されていると思ったら大間違いである(ただし、外国人がそうした認識を共有しているように振舞うことはあるだろう。そうしなければ日本人は逆ギレするだろう、と外国人が考えるに足る合理的理由はあまりにも多いと思う)。

 ところで、こうしたパターナリズムの行き着く先はどこなのだろうか?まあ、ある意味ではすでに行き着いた感もあり、温情を装った外国人労働者への追放政策が着実に実行されてもいる。在日朝鮮人に対する北朝鮮への「帰国」支援事業が、「人道」の名のもとに遂行されたことも忘れてはならないだろう。こうしたパターナリズムは、ショーガイシャ(「脳死*11者を含む)に対してしばしば突きつけられる、自己決定権の究極的な否定(「こんな姿で生きているよりも死んだ方が本人も幸せだろう」)には及ばないまでも、外国人を本来的に日本に「いてはならない存在」と位置づけ、外国人の生存権を否定している点では、そう変わりはないと思う。

 また、本国人である日本人とのつきあいは、見知らぬ国で働く彼らにとって、単に仕事を紹介してもらうだけではなく、日本の賃金水準や職場慣行についての情報や助言をえるという点でも大きな役割を果たしている。

 加えて、日本人とのつきあいは、非正規滞在者の生活面でも、重要な意味をもっている。休みを一緒に過ごす、困ったことを相談する、家を借りる際の保証人になってもらうなど、日本人との交流によって、非正規滞在者の日本での生活はより豊かなものとなる。その結果、仕事の充実度が増すとともに、日本での生活を楽しむことによって、日本が働くためだけの場所ではなくなり、帰国が延期され、滞在が長期化する要因にもなっている。*12

 上記は(4)でも引用したが、鈴木は外国人に対する抑圧構造を一応は認めながらも*13、基本的には日本人が外国人にとっての「窓」であるというパターナリズムを堅持している。外国人を排除する社会を作っておきながら、日本人が外国人にとって社会への「橋渡し」になるという、日本人マジョリティの傲慢ないし妄想は、徹底的に叩き潰さなければならない。DV加害者が、自ら監禁している被害者に新聞を読み聞かせてくれるからといって、被害者が加害者に感謝しなければならない筋合が何らないのと同じである。

 いわゆる「外国人労働者受け入れ論」が、一見リベラルなようでその実終わっているのも、それが、外国人には日本で生きていく権利はないという発想にもとづいて、外国人を受け入れるとか受け入れないとかいった論理を展開しているからだと思う。現実に存在している(しうる)外国人を受け入れようとすることが、そもそも日本人側のとんでもない驕りである。鈴木には『「多文化パワー」社会――多文化共生を超えて』(共編著、明石書店、2007年)という著作もあり、読む前からケチをつけるのもよくないが、同書が、日本人と外国人が対等に生きていける社会を提言していると思えるほど楽観的にはなれない。

 日本人マジョリティの多くが日常的に外国人と接することもなく*14、外国人を排除する社会の中で生活している以上、日本人が「多文化共生」を志向することは、外国人に対する自身の(無意識の)差別意識を深く自覚し、日本人である自分自身の怖ろしさと正面から向き合う営みなしには不可能だと思う。自分たちがごく当然のものとして持ち続けてきた感覚が、外国人を排除する社会によって育まれ、翻ってそれが外国人を無意識のうちに抑圧・差別する社会を再生産していく感覚であることを認め、日本人自身がそれを克服していかない限り、「多文化共生」が、「同化の論理」と「旧臣民の論理」にもとづいて「積極的に外国人の階層化を推進する」社会以上のものになることはないだろう。外国人に対するパターナリズムや「寛容」は、端的に不要であり、(日本人自身にとっても)有害である。

(次回に続く)

*1:あ、嘘でした。イスラエルがあった。

*2:日本語的には「国内外」とするべきだろうが、日本国内の戦後補償運動は近年加速度的に弱体化している。

*3:実際、かれらは人種差別撤廃委員会や「ディエン報告書」が重点的に批判する差別行為に重点的に手を染めている。

*4:たぶん私よりも詳しいと思う。

*5:鈴木江理子、『日本で働く非正規滞在者―彼らは「好ましくない外国人労働者」なのか?』、明石書店、2009年、pp.384-386

*6:同上、p.386

*7:同上、p.187

*8:正確に言えば、「合法的滞在者」のうち「身分または地位にもとづく在留資格」を持つ外国人には、生活保護法が「準用」されることがある(権利として適用されるわけではない)。

*9:もっとも、歴史的文脈といった「分をわきまえ」れば、外国人(特に在日朝鮮人)はなお日本人と同等以上の処遇を要求できることになるだろうが。

*10:同上、p.301

*11:「障害者」もそうだが、「脳死」という用語も、私たちが決して慣れてはならない暴力を備えた言葉であると思う。

*12:同上、p.446

*13:ただし、これまで述べてきたように、鈴木がこうした抑圧を自身の問題として捉えていないことは明らかだが。

*14:http://www.city.nagoya.jp/shisei/koho/monitor/nagoya00022599.html など