ストーカー化するリベラル・左派論壇(3)

 昨日の続き。『情況』3月号の「田母神論文の批判的考察」批判シリーズは、あと一回で終わる予定です。

論理のターミネーター

 最後の論文は、加々美光行の「竹内好の視座から見た田母神論文 ―日本社会の無思想性の意味を考える―」。なんていうか、タイトルから終わってます。

加々美田母神論文を考える場合・・・本質的に日本における思想そのものの問題として考えねばならない・・・僕の目から言うと、今の日本社会はかなり高いレベルで無思想の社会と云えると思うのです・・・思想とは何かと言うと・・・それは・・・人間が一生を生きていくうえで、その根拠となるものと云ったものですね。それが失われていった。田母神論文を見ても分るように、思想といったものは何も感じられない・・・」*1

 加々美は、田母神論文を始め、右翼や、秋葉原の無差別殺傷事件、元厚生次官殺害事件、ワーキングプア、フリーター、オウム、歴史修正主義、中国の反日ナショナリズムといった、彼が気に食わないものに、ことごとく「無思想」というレッテルを貼りつけて断罪している。しかも、そのレッテル貼りの根拠が、「思想といったものは何も感じられない」という加々美の主観なのだから、まるで論理のターミネーターだ。何を思想である(ない)と判断する権利が誰にあるのかという問題意識を持たない加々美の「思想」こそ、対「テロ」戦争を支える(何が「テロ」である(ない)かは自分たちだけが決めることができるという)メンタリティそのものだと思う。

 加々美は「思想」の高み(@ムー大陸)から説教を続ける。

加々美言論の自由があるかないかという議論が田母神問題に関してもあるでしょう。しかし、言論の自由というのは、新聞や雑誌で発言できる立場にある人の権利なんですよ。ところが、重要なのはそれを読み見る人たちがどうかと言うことで、その人たちにおいても思想と言うものがますますなくなっているということです。たとえば、秋葉原の事件や厚労省の元次官宅を襲った小泉などからは、どこにも思想というものの影すら見つからない。自分の飼い犬が殺されたからといって人殺しをする、そこには思想と呼べるようなものは見当たらない。かつてのテロリストには、一個の人間として、自分の命を背負って立つといった思想的背景というものが多少ともあったものですよ。それがない。これに驚いているのです。ワーキングプアとかフリーターとか呼ばれている人たちはかなりの貧困に苛まれている。だから、かつてならば、そこから何か思想らしきものが湧き上がってくる筈ですが、それがない。つまり社会全体が無思想だということなんです」*2

 「厚労省の元次官宅を襲った小泉などからは、どこにも思想というものの影すら見つからない。自分の飼い犬が殺されたからといって人殺しをする、そこには思想と呼べるようなものは見当たらない」って・・・飼い犬が動機だと本気で信じて疑わない加々美の「思想」もすごいし、実際に飼い犬が動機だったとしたら、その方が「テロ」よりもよっぽど独創的な「思想」だと思うよ。

 まあ、それはともかく、新聞や雑誌といった出版媒体以外でなされた言論を、言論として認めないという加々美の思い上がりは、いったいどこから来ているのだろう?謎すぎる。この発言をスルーして、「僕は五年ほど前から北一輝について考えているのですが・・・現在の日本の社会の無思想的なひどさの中にいると、神に救いを求める北の心も分らなくはないのです」*3と同調しているインタビューアーの古賀暹(前『情況』編集長)もひどすぎる。北一輝といえば、二・二六事件の首謀者で、国内においては軍人をエリート階級とし、アジアにおいては日本を指導者として、軍事力による世界の再分割を主張した人物である。

 古賀は、竹内好が「大東亜戦争」を歓迎したことについても、「当時の情勢を考えてみると、現在の立場から安易に批判することは許されないことでしょう」*4と言っている。こうしたレトリックと、かれらが批判している(らしい)『新しい歴史教科書』の歴史観との間には、何か違いがあるのだろうか?

 (『新しい歴史教科書』の)「著者たちは次のように書いている。「歴史を学ぶとは、今の時代の基準からみて、過去の不正や不公正を裁いたり、告発したりすることと同じではない。過去のそれぞれの時代には、それぞれの時代に特有の善悪があり、特有の幸福があった」」

 「仮に「今の時代の基準によって過去の出来事を告発することができない」という考え方が正しいとすれば、その論理的な帰結として(当然のことだが)、現在の基準によって過去の出来事を賞賛できないことになろう・・・その上、もし現在の基準によって自らの国の歴史を裁くことができないのなら、(この教科書が盛んに行っているように)今日の基準によって他の国々の歴史を裁く意味も失効する」*5

批判的想像力のために―グローバル化時代の日本

批判的想像力のために―グローバル化時代の日本

 加々美の発言に戻る。もしも、現在の日本の格差社会論が無思想に見えるとしたら、それは加々美自身がナショナリズムのぬか漬け(熟成版)になっているからだとしか思えない。

 私にも話させて:「排外主義としての格差社会論」
 http://watashinim.exblog.jp/6123044/

 格差社会への反対論がリベラル・左派の枠を越えるのは、あまりにも当たり前のことで、それを肯定的に評価すること自体がどうかしている。と言えば言いすぎだろうか?なぜなら、秋葉原の無差別殺傷事件の加害者に象徴されるワーキングプアは、いまや、保守が共同体の一員と見なす大卒の日本人男性にまで広がっているからだ。言い換えれば、非大卒・非日本人・非男性の多くは、これまでずっと貧困だったにもかかわらず、ほとんど見向きもされてこなかった。

 学歴や国籍、ジェンダーの視点を欠いた格差社会反対論は、既存の社会的不平等を不問に付すという点で、決定的に保守である。もしも、「ゼロゼロ物件」を貧困ビジネスとして批判するなら、外国人用のゲストハウスやマンスリーマンション*6も批判しなければ理屈に合わない。また、そうした外国人専用物件へのニーズを生み出す一般住宅での入居差別(「ガイジンはお断り」など)も叩かなければ、お話にならない。

 さらに言えば、海外に展開している日本企業そのものが、格差を利用した「貧困ビジネス」で儲けている以上、そうした構造的な問題をスルーするのも理屈に合わないだろう。これらの矛盾をかかえた現在の格差社会論が無思想であるはずはない。加々美は無駄にスルー力が高いだけなのである。

 以下に紹介するのは1989年の論文だが、今日の格差社会反対論は、20年前の地点からどれだけ進んでいるのだろう?あるいは進んでいない/後退しているのだろう?

戦前・戦中・戦後現在に至る在日韓国・朝鮮人のおかれている労働・生活実態は、今日問題とされるアジア(出稼ぎ)労働者の人権侵害実態を、すでにことごとく体験させられていることを示している。新たな外国人(出稼ぎ)労働者の存在と人権侵害状況は、日本社会の戦前・戦後における「異民族」労働者、生活者に対する対応のあり様もまた、問い返さずにはおられない問題である」

「・・・彼らの「貧しさ」は、日本の「豊かさ」とは無関係であるとは言えない・・・戦前から戦後へと引き継がれた「植民地」問題、現在の経済格差としても現われる「南北問題」こそが、外国人(出稼ぎ)労働者問題を生み出す本質的な背景である。また、現在の多国籍企業の実態や、日本のアジア諸国に対する「経済援助」の実態も重要な要因となっている

「すべての出発点は日本の歴史を直視し、人権保障の観点にこそ立たなければならない。長期的課題としては、日本を含む「先進国」とアジア諸国との南北経済格差を是正するための措置がとられなければならない・・・日本企業の無原則な経済進出を防止し、多国籍企業の無秩序な進出を規制する方策がとられなければならない」

 丹羽雅雄:「日本における外国人労働者の差別と人権」
 http://blhrri.org/info/book_guide/kiyou/ronbun/kiyou_0067-05.pdf

クリーンインストールを推奨します

 ところで、この論文の最大のセキュリティホールは、何といっても、中国や韓国のナショナリズムを日本のナショナリズムと同列に語り、すべてを切り捨てようとしている点である。こうしたスタンスは、加々美が見下している2ちゃんねらー(@加々美の脳内)とほとんど変わらない。

加々美 「中国の学生はじめ青年大衆が、現在、反日に立ち上がっていますね。それに比べて日本の学生は何もしていないから、政治に立ち上がった中国人青年の方がまだ思想性があると考えてしまう人もいる。だけど、全くそうではない。中国人青年の反日の主戦場もやはりインターネットなんですよ」

 「重要な点は・・・戦前戦中の中国の反日抗日運動においては、日本という存在は抽象的な国家としてあるだけでなくて、軍人、軍隊として具象化された肉眼で見ることが出来るものとして中国に存在していたのです。だから、彼らには等身大の日本軍国主義というものが見えたんです。自らの生命を脅かすものとして、つまりは、自分の生き様とかかわるものとして日本軍も見たわけで、彼らもまた命がけの戦いを行うことになった」

 「今、中国において、そういう自分の生存を脅かすものとして日本が存在しているかと言えば、そんなものは存在していません。そのことを彼らも分っているはずなのです。彼らは茫漠とした日本と言うものに反発をしている・・・少なくとも中国、日本、韓国の東アジア三国は似たような無思想の時代となっている」*7

 加々美はそろそろ別のOSを脳内にインストールする時期だと思う。以下にクリーンインストールの手順を書いてみる。

  1. 『ぼくは毒ガスの村で生まれた。―あなたが戦争の落とし物に出あったら』を読む。子どもから大人までを対象とした本なので、大学教授の加々美でも読めるはずだ。
  2. 「今、中国において、そういう自分の生存を脅かすものとして日本が存在しているかと言えば、そんなものは存在していません」という発言が間違っていることを認める。中国に限らず、日本が軍隊を展開したアジア・太平洋諸国では、「日本軍国主義」は「具象化された肉眼で見ることが出来るものとして」今も「存在してい」る。
  3. 戦後補償は終わってない、というか、始まってさえいないことを認める。たとえば、女性に対する戦時性暴力については、VAWW-NETジャパンなど。
  4. かりに2のように主張しないとしても、「自分の生存を脅かすものとして日本が存在してい」なければ、中国の人々は、「茫漠とした日本と言うものに反発をしている」だけなのか?そうではないだろう。日本の戦後責任と軍事大国化をスルーして、アジアの反日感情を「無思想」だと言い放つ、加々美のような物言いこそが、人々の具体的な現在進行形の反発を招いているのである。「茫漠とした」中韓「と言うものに反発している」だけなのは、加々美自身であることを直視しよう。
  5. 1〜4に不具合が生じたら、思い切って本体を買い換えるのも手だ。

ぼくは毒ガスの村で生まれた。―あなたが戦争の落とし物に出あったら

ぼくは毒ガスの村で生まれた。―あなたが戦争の落とし物に出あったら

 加々美は、田母神論文をめぐる中国の反応について、以下のようにまとめている。

加々美 「これを中国側がどう見るかと言えば、五〇パーセント以上の人が日本軍国主義の復活だという。だけど、こういう人々が「根のある」ナショナリズムに基づいて言っているとすれば話は違うけど、根はない。根無しで排他性が強くなる。かつての抗日運動の中にも、もちろん、排他性はあったが、その排他性は根のあるものだったので排他性一色ではなかった。逆に、根がないと、排他性と言うものは強くなる」*8

 そして、そこに根があるかないかを決めるのは、加々美なのである。アジアの人々への優越感と差別意識を戦前から引き継いでいる点で、加々美も田母神もたいして変わらない。実質的な田母神論文批判になりえないこうした論文を、『情況』がなぜ「田母神論文の批判的考察」として紹介しなければならなかったのかについては、次回に考えてみるとする。

*1:加々美光行、古賀暹、「竹内好の視座から見た田母神論文 ―日本社会の無思想性の意味を考える―」、『情況』2009年3月号、pp.120-121

*2:同上、pp.121-122

*3:同上、p.122

*4:同上、p.130

*5:テッサ モーリス=スズキ、『批判的想像力のために―グローバル化時代の日本』、平凡社、2002年、pp.75-76

*6:これも、敷金・礼金・保証人が不要な代わりに、少しでも滞納すると追い出される「ゼロゼロ物件」だ。

*7:同上、pp.123-124

*8:同上、p.134