ストーカー化するリベラル・左派論壇(2)

 書きたいことが多くて、エントリーの更新が追いつかなくなってきました。村上春樹にスピーチの感想を届ける件も大幅に遅れていたり。

 とりあえずは、『情況』3月号の「田母神論文の批判的考察」の続きを。

「そうだ。我々は殺した。焼き払った。レイプした・・・諸君、またやろうではないか」

 二番目の論文は、丸川哲史の「竹内好「近代の超克」論、あるいは第三世界の主権(談話)」。「近代の超克」というのは、「西洋近代を超えようとする「思想運動の合言葉」」*1で、具体的には、「欧米列強に対抗するがためにこそ、西洋列強の方法を用いてアジアにおける主導権を握るという論理構造を持つ」*2、「「主権」を守るには侵略するしかない、という日本の倒錯」*3であるという。

 丸川は、孫歌へのインタビューでも、竹内好の著書について、「アジア主義の中に侵略を防止する連帯の要素は本当になかったのかどうか、もしあるとすればどの時点でどのような形で成長できなくてつぶされてしまったか、ということを探求する試み」*4であると持ち上げている。

 ていうか、「アジア主義の中に侵略を防止する連帯の要素は本当になかったのか」って、どんだけキモいんだよ?DV行為の中に愛を育む「要素は本当になかったのか・・・を探求する試み」って、人間としてあまりにも残念すぎるだろ。

 「侵略はあった。しかし、それは連帯の表現でもあった」というDV史観は、侵略を認め、それを肯定的にも評価しようとする点において、「侵略はなかった」という歴史修正主義よりも腐っていると思う。なぜなら、侵略を(部分的にせよ)肯定的に評価できるなら、それを繰り返すこともまた、肯定的に評価することができるからである。

 以前、toledさんは、「永遠の嘘をついてくれ」というエントリーで、「歴史修正主義とは、平和主義の一種なんじゃないだろうか」と(保留つきで)述べていた。残念ながら「(元)登校拒否系」時代のエントリーはすべて削除されてしまったので、以下に貼りつけてみる。

 ・・・歴史修正主義者もまた「事実」を捏造する者たちである。彼らは、あったことをなかったことにする。事実を葬り去ろうとする。彼らはそうすることで、どのような「生きる意味」を維持しようとしているのだろうか?
 虐殺はなかった。人体実験は行っていない。慰安婦は自由意志で経済活動を行っていた。なぜこんなふうに強弁する必要があるんだろうか? ここでは、虐殺はよくない、ということが前提となっているのだろうか? もし虐殺が好ましくないことでないのだとしたら、特に否定する必要もないはずだ。仮にそれが嘘だとしても、「言わせておけばいい」ということになるだろう。少なくとも(修正主義者側からは)大きな政治問題であるとは意識されないことだろう。
 とすれば、歴史修正主義は歓迎されなければならないのかもしれない。少なくともウヨクが修正主義に走ることは容認されてもいいことになるかもしれない。それは、ウヨクまでもが反戦主義的価値観を常識として共有していることを示すからだ。歴史修正主義とは、平和主義の一種なんじゃないだろうか。
 虐殺は許されない。人体実験は正当化できない。拉致は犯罪である。こう思っている人々は、次の機会に虐殺をしたり容認したりする可能性が低いのではないか。むしろ怖いのは、歴史を直視するウヨクであるかもしれない。そうだ。我々は殺した。焼き払った。レイプした。囚人を使って化学兵器の研究を行った。拉致した。拷問した。そうだその通りだ。諸君、またやろうではないか。こんなことをウヨクが言い出したらそれこそ恐怖ではないだろうか? それに比べれば、修正主義は少なくともよりマシと言ってもいいのではないだろうか?*5

 toledさんの見解にひとつだけ異議を唱えるとすれば、「むしろ怖いのは、歴史を直視するウヨクであるかもしれない」と指摘するだけでは足りないかもしれない、ということだ。「そうだ。我々は殺した。焼き払った。レイプした・・・諸君、またやろうではないか」と言い出すのは、もしかすると、「リベラル・左派」と呼ばれる人々であるかもしれないのである。少なくとも、それを否定するだけの根拠を丸川の主張に見つけることは難しいのではないだろうか?

誰が核のない世界を創れるか/「近代の超克」使用前・使用後

 丸川は、第三世界の核保有についても、「「近代の超克」というテーゼは、第三世界論が有すべきジレンマそのもの」*6であると言い、世界の非核化を進める責任は、先進国ではなく第三世界にあるという謎の主張をする。

 このジレンマ――「主権」の防衛のために、西洋近代が発明したものをある意味では過剰適応的に取り入れようとする――このジレンマを解く主体も、まさに第三世界に他ならないということです。結局、先進国の押しつけようとするゲームの規則によっては、核は消え去らないということです。これは方法論的なものでもありますが、極めて実践的なことでもあります。核のない世界を実現する条件は、また第三世界の手に握られている、ということです。先進国には、そのような条件にはありません。そして日本ですが、予め「主権」のかなりの部分を米国に譲渡しているのですから、第三世界のように「主権」を守るために核を持つ、という論理条件がはじめからないわけです。これは別に、日本の「反核」運動にケチをつけているわけではなく、歴史的条件を述べているだけです。*7

 ずいぶん回りくどい表現をしているが、わかりやすく言い換えればこういうことだろう。これは北朝鮮バージョンだが、他の国々についても、それぞれ読み替えができる。

 「このジレンマ――米国と不可侵条約を締結するための取引材料として、北朝鮮核兵器を開発している――このジレンマを解決するべきなのは、米国でも日本でもなく、北朝鮮に他ならないということです。結局、六カ国協議の枠組では、北朝鮮核兵器の開発を断念させることはできません。これは理論的にも現実的にも証明できます。北東アジアの非核化を実現する条件は、北朝鮮の手に握られている、ということです。米国も日本も非核化のために努力する義理はありません。そして日本ですが、最初から米国の核の傘に入っているので、北朝鮮のように核問題に主体的に取り組むことはできません。つまり、日本でどれだけ反核運動が盛り上がっても、それが世界の非核化に結びつかないことは明らかなんです」 

 そして、丸川はこう結ぶ。

 日本において、特に左翼陣営において、第三世界論、及び中国の視座が全く空洞化していると思います。私も加担しましたので自己批判しますが、ポストコロニアル理論などその兆候ですね。こういったことは、やはりかつて日本の左翼が第三世界や中国を理想化しすぎたツケなのだろうとは思います・・・日本における第三世界論をやり直すにも、まず竹内の「日本のアジア主義」(旧題:アジア主義の展望)を読みなおすべきだと思います・・・*8

 それはそれは。では、「日本のアジア主義」の結論を引用してみよう。

 「・・・アジア主義は、前に暫定的に規定したように、それぞれ個性をもった「思想」に傾向性として付着するものであるから、独立して存在するものではないが、しかし、どんなに割引きしても、アジア諸国の連帯(侵略を手段とすると否とを問わず)の指向を内包している点だけには共通性を認めないわけにはいかない。これが最小限に規定したアジア主義の属性である」*9

 アジア諸国の連帯(侵略を手段とすると否とを問わず)の指向」とやらを、日本以外のアジア諸国の人々が求めているとは、とても思えない。愛情(DVを手段とすると否とを問わず)がお呼びでないのと同じである。竹内好をありがたがっている連中は、その程度のことも認めたくないのだろうか。こんなDV史観を振りかざす国は一刻も早く亡び去った方が、「アジア諸国の連帯」にとって、よっぽど有益ではないかという気がしてくる。

 丸川哲史は、『<歴史認識>論争』*10に寄稿し、同書の「脱冷戦・グローバル化時代の<歴史認識>を考える」という座談会にも参加している。残念な自称左翼の見本と言うしかないが、自称リベラル・左派に、人間としてとても残念な人が少なくないのも事実だろう。*11

 そんな感じで、さらに次回に続く。

*1:丸川哲史、「竹内好「近代の超克」論、あるいは第三世界の主権(談話)」、『情況』2009年3月号、pp.112-113

*2:同上、p.113

*3:同上、p.115

*4:孫歌、丸川哲史、「国家・革命・戦争」孫歌氏インタビュー、『情況』2009年3月号、p.107

*5:ここでの歴史修正主義者とは、実際にあったことをなかったことにしようとする者のことである。だから当然ながら、このエントリーは一定の歴史認識を自明の前提としている。だから当然ながら、事実を一歩一歩解明していくことに意味がないということをここで言おうとはしていない。

*6:丸川哲史、「竹内好「近代の超克」論、あるいは第三世界の主権(談話)」、『情況』2009年3月号、p.113

*7:同上、p.114

*8:同上、p.119

*9:竹内好アジア主義の展望」、竹内好編『アジア主義現代日本思想大系9)』筑摩書房、1963年、p.14

*10:高橋哲哉編、「<歴史認識>論争」、作品社、2002年

*11:直接的・間接的な体験からも、そうとしか解釈できないことがいくつかある。