日本人原理主義下等(2)

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(2)マスター・ナラティブへの欲望――保守とリベラルによる支配の相互補完――

 鈴木がどこまで自覚的なのかはわからないが、本書からは、「外国人問題」に関わるNPO/NGOを含む「リベラル」の一部が共有していると思われる、マスター・ナラティブ*1への強烈な志向を読み取ることができる。それを顕著に示すのが、鈴木が「外国人政策における非正規滞在者」として、非正規滞在者に焦点を当てて戦後の日本の入管行政を論じている第一章である。

 実のところ、この章を読んですぐには、私は鈴木のスタンスを理解することができなかった。「労働者としての非正規滞在者を正当に評価すること」なく、非正規滞在者を「好ましくない外国人労働者」と決めつけるのはいかがなものか、という主張(に関わる部分)を別にすれば、鈴木が、日本の入管行政の歴史として語っているのは、大まかに言って、入管資料や「坂中論文」*2およびその周辺文献からの単なる引用か、NPO/NGO関係者らによる、1980年代後半以降に限定された、非正規滞在者への支援の取り組みのどちらかでしかなく、しかも前者が圧倒的大部分を占めているのだから。

 これではまるで、DV加害者の手記をそのまま「客観的事実」として引用しながら、DV被害者への支援活動を宣伝しているようなものではないか。当初、私はそのように感じ、鈴木の不気味な分裂(と私が思ったもの)に戸惑った。

 けれども、本書を読み進めるうちに、おそらく鈴木は、外国人の人権を保障しようとする運動を、日本人原理主義というマスター・ナラティブに抗するカウンター・ナラティブ*3として対置するのではなく、マスター・ナラティブの不可欠な一部として位置づけているのではないか、ということに気がついた。つまり、鈴木にとっては、NPO/NGO関係者ら「リベラル」は、外国人に日本人と同等の権利を保障することを目指して、日本国家の入管行政に対抗するべき存在なのではなく、外国人に「恩恵を与える」ことで入管行政をより「寛容」な方向へと導いていく、日本国家の入管行政を司る主体の不可欠な一部として認識されているのではないか、ということである。

 そうであれば、日本国籍を取得しようとしない在日朝鮮人に対する制度的・社会的差別の一切を合理化し、在日朝鮮人の生を「朝鮮系日本人」としての生に切り詰めようとする「坂中論文」を、自著で無批判に引用する一方で、「すべての外国人学校に大学入学資格と財政措置を求める共同声明」に賛同するような鈴木のスタンスは、分裂しているどころか極めて首尾一貫していると言える。よりあからさまな言い方をすれば、日本人原理主義に骨まで漬かった保守とリベラルが、外国人に対する「寛容」の度合いをめぐってせめぎ合う、その敵対的友好関係の変遷こそが、鈴木から見た日本の入管行政の歴史なのである*4両者は2つで1セットなのであり、それを個人レベルで体現しているのが、鈴木のような人間なのだ。

 そして、日本の入管行政を司る主体であるところの保守とリベラルは、決して自らが依拠する日本人原理主義を相対化するようなカウンター・ナラティブを受け入れようとはしない。例えば、鈴木は「合法的な滞在資格をもたないことが、必ずしも当該外国人の責ではない場合もある」*5として、次のように述べている。

例えば、改定前の日本の国籍法では、日本人男性と非正規滞在女性との非嫡出子の場合、胎内認知をえなければ、日本人の子どもであるにもかかわらず日本国籍を取得できず、その結果、非正規滞在者となることがあった。*6

 ところが、話がこの「合法的な滞在資格」という概念そのものの恣意性を問う局面になると、鈴木は途端に寡黙になる。彼女は、本書で7ページを割いて、「戦後の入管行政のなかで重要な問題とされた朝鮮半島からの「密航者(「不法」入国者)」」について概説しているが、そこでは、日本が敗戦後いち早く(1945年12月)在日朝鮮人や台湾人などの旧植民地出身者の選挙権を否定したこと*7や、日本国憲法が施行される前日の1947年5月2日に、天皇が最後の勅令によって「外国人登録令」を制定し、朝鮮人を一方的に外国人と見なし、外国人登録を拒絶した朝鮮人を強制退去したこと、日本政府が、一世代以上もの長きにわたる植民地支配によって荒廃した朝鮮半島から日本に戻ってきた朝鮮人を、「共産主義者」や「犯罪者予備軍」と見なし、連合国・GHQに働きかけて強制送還してきたこと、そしてその一方で、サンフランシスコ単独講和条約の発効(1952年4月)までは朝鮮人日本国籍保持者であるとして、それを民族教育弾圧の口実にしてきたこと・・・などなどは、どこにも語られていない。

 日本国家の国民概念の正統性を脅かすカウンター・ナラティブの代わりに鈴木が語っているのは、「戦後日本の非正規滞在者は、朝鮮半島からの密航者でその幕を開けたのであった」*8という「分析」であり、その理由として、朝鮮半島からの密航者が多いことについて、入管白書では、日韓両国交流の歴史的経緯、多数の地縁・血縁者が日本国内に居住していること、地理的条件として両国が近距離にあること、日韓両国間の経済的格差などがその理由として挙げられている」*9としているを挙げている。植民地支配を「日韓両国交流」とうそぶく入管の精神構造は醜悪極まりないが、それをそのまま引用している鈴木の神経もすさまじい。これでは、レイプ犯がレイプを被害者との「交友」だと言い張るようなものではないか。

 さらに、鈴木は、「日本国憲法第3章(第10条〜第40条)には、「国民の権利及び義務(Rights and Duties of the People)」が規定されているが、「外国人(日本国籍をもたない者)」の権利に関する言及はない」*10と述べている。大嘘である。ご丁寧にも英語の原文を添えているところが笑えるが、これはまさに原文と日本語訳を読み比べればよくわかる。

 Chapter III Rights and Duties of the People

 第3章 国民の権利及び義務

 Article 10 (Citizenship)
The conditions necessary for being a Japanese national shall be determined by law.

 第10条(国民の要件)
日本国民たる要件は、法律でこれを定める。

 Article 11 (Fundamental Human Rights)
(1) The people shall not be prevented from enjoying any of the fundamental human rights.
(2) These fundamental human rights, guaranteed to the people by this Constitution, shall be conferred upon the people of this and future generations as irrevocable and inviolable rights.

 第11条(基本的人権の享有)
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

 日本語では「(日本)国民」という同一の訳があてがわれているが、原文では「the People」(第3章のタイトルおよび第11条以下)と「a Japanese national」(第10条)という言葉は、明確に使い分けられている。第10条の「a Japanese national」は「日本国籍保持者」を意味するが、第11条以下の「the People」は「日本に住んでいる人々」を指す。つまり、原文を忠実に解釈する限り、日本において在日外国人の基本的人権を否定する根拠はないのである。

 というように、本書は、日本の入管行政における保守とリベラルによる支配の相互補完がどのようなものであるかということを、端的に示してくれている。鈴木は一部で「外国人問題」や「多文化共生」のエキスパートと呼ばれているらしいが、本書には、おそらく坂中英徳でさえ憤慨するだろう、日系南米人へのレイシズム*11が明け透けに綴られている。

 一方で、労働力の「Just-in-Time-System」として、企業にとって大きなメリットをもたらす日系南米人は、彼/彼女らが居住する地域社会に「外部不経済」というデメリットをもたらすこともある(丹野2001:240-241)。ゴミ捨てや騒音、路上駐車などをめぐる地域住民とのトラブル、子どもの不就学や教育における「失敗」、社会保険への未加入や税金の未払いなどは、日系南米人が集住する地域社会が直面している「問題」として、昨今、盛んに論じられている。そして、下請け企業や取引き企業で日系南米人を雇用している企業に対して、たとえ間接雇用であっても、「企業の社会的責任(Corporate Social Responsibility : CSR)」の観点から、責任ある対応が求められている。つまり、自社の商品の生産過程に日系南米人を活用している企業は、外部不経済を解消するためのコスト分担を引き受ける必要があるというのである。*12

 「外部不経済」「失敗」「問題」といった単語が括弧でくくられていることを差し引いても、度肝を抜かれるような発言である。とても、アジアの民衆に対する戦後補償を60年以上も放置し、途上国の人々を国内外で執拗に搾取し、ソマリア沖合に有害廃棄物を不法投棄している「平和国家」/「先進国」の国民の台詞とも思え・・・るか。

 いずれにしても、こうした鈴木ら「リベラル」によって表象される日系人像が、「外国人労働者を挟み撃ちする厚労省と法務省」の思惑を後押しすることは間違いない。イスラエル労働党に代表されるシオニスト左派こそが、リベラルの装いをしながら、ユダヤ人国家の主流をなし、パレスチナ人の追放・差別を主導してきたように、日本においてもリベラルな日本人原理主義者こそが、日本国家のマスター・ナラティブを綴り、レイシズムをいっそう社会に定着させていく上で、主要な役割を担うことになるのではないか。

(次回に続く)

*1:支配者によって綴られる物語

*2:坂中英徳、『今後の出入国管理行政のあり方について―坂中論文の複製と主要論文』、日本加除出版、1989年

*3:マスター・ナラティブの中で踏みにじられてきた人々が語る物語

*4:もっとも、坂中は「リベラル」の部類に入るのだろうが。

*5:鈴木江理子、『日本で働く非正規滞在者―彼らは「好ましくない外国人労働者」なのか?』、明石書店、2009年、p.22

*6:前掲書、p.22

*7:それまでは六ヶ月以上一定の場所に居住する男性高額納税者に限って選挙権があった。

*8:同上、p.74

*9:同上、p.153

*10:同上、p.98

*11:おかしな表現だが、日本人原理主義者である鈴木にとって、どうやら日系人は「同胞」と見なされていないようなのである。

*12:同書、p.470