日常という名のジェノサイド

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「外国人排斥を許さない6・13緊急行動」への参加・賛同の呼びかけ

 すでにご存知の方も多いかもしれませんが、6月13日(土)に京都で「外国人排斥を許さない6・13緊急行動」(デモ)が企画されています。以下、情報を転載します。賛同者も募集中ですので、未見の方はぜひチェックをお願いします。私も賛同しました。

 2009年4月11日埼玉県蕨市で、不法滞在を理由として両親が強制送還され、日本政府により家族と別れて暮らすことを強いられた女子中学生の自宅・学校に押しかけるという卑劣なデモがありました。その内容は外国人を犯罪者と断定し、日本から追い出せという主張でした。主催したのは「在日特権を許さない市民の会在特会)」などです。

 今回その在特会などが、京都市外国人参政権に反対するデモをしようとしています。私たちは今回の彼らの行動が、京都にとどまるものではなく、また外国人参政権を巡る問題だけにとどまるものでもなく、日本に新しく現れた排外主義的な動きであると捉えています。今はまだ彼らの動きは大きくないものに見えますが、不況下においてファシズム外国人差別が肥大化した歴史を思い起こすとき、今回の動きを見過ごすことは出来ません。そこで私たちは今回彼らがデモをしようとしている6月13日に抗議の意味を込めて、「外国人排斥許さない6・13緊急行動」としてデモを企画しました。

 このような外国人排斥の風潮を許さないのだという強い意志を全国的に示すことが今必要とされているのではないでしょうか。時間が限られた中で恐縮ですが、本行動への皆様の参加と賛同を広く呼びかけます。

 つづきは↓から:
 http://613action.blog85.fc2.com/blog-entry-1.html

日常という名のジェノサイド

 ところで、「在日特権を許さない市民の会」の行動を「日本に新しく現れた排外主義的な動きと捉え」る見方は、半分は正しく、半分は正しくないと思う。

 確かに、「在特会」のようなあからさまなレイシスト集団が、自らの主張を「デモ」という形で大衆に訴えるために、3次元世界にデビューしたという点は、戦後日本において新しい現象と言えるかもしれない。一方で、日本に長年住んでいる外国人であれば、日本がレイシスト国家であるという、自らの日常的な実体験に裏打ちされた認識を持たずにいられる人は、ほとんど皆無ではないかと思う。

 日本がレイシスト国家であるという実感は、「在特会」の行動によっていっそう迫真性を帯びることはあっても、それらによって初めて生じるわけではない。これを「在特会」の側から見れば、かれらは自分たちの主張が日本社会で一定程度受け入れられる公算があると考えたからこそ、サイバースペースから街頭に進出してきたわけであって、ごく「普通」の日本人の価値観がレイシズムに染まっているのでない限り、かれらの公算はあらかじめ成り立たないということになる。

 そもそも、外国人の人権をまったく無視した「在特会」の示威行動――端的に言ってジェノサイドを志向している――を、「デモ」として容認することがレイシズムでないなら、何がレイシズムなのだろう?

 ジェノサイドはその遂行に必ずしも物理的暴力を伴うわけではない。そして、日本社会においてジェノサイドを遂行しているのは、「在特会」のような極端なレイシストだけでなく、ごく「普通」の日本人でもある。その典型が、「言語的ジェノサイド」である。以下、「ジェノサイド条約2条と文化的ジェノサイド」という論文から引用する。(強調は引用者による)

・・・言語とジェノサイドの関係を結びつけようとする「言語的ジェノサイド(linguistic genocide)」または「言語抹殺(linguicide)」という概念がある。現在、この「言語的ジェノサイド」または「言語抹殺」という用語は、社会言語学を始めとして、政治学や法学でも少しずつ使用されるようになってきているが、この用語の代表的な研究者としてあげられるのが、社会言語学・言語法研究を専門とするTove Skutnabb-Kangasである。彼女は、ある言語の強制によってマイノリティや民族のアイデンティティを抹殺することが「言語的ジェノサイド」または「言語抹殺」であるとするが、現代の政治下において「言語的ジェノサイド」の最たるものが、何よりも教育であると認識する。なぜならば、教育において主要媒体として用いられない言語を殺戮しているのは、正に公教育であるからである。

・・・以上のことを鑑みるならば、世界の大部分の国は日常茶飯事、子どもの言語的人権を蹂躙していることになり、これらの国は、教育制度を通じてジェノサイドに加担していることになるからである。

 この際に彼女が着目するのは、ジェノサイド条約であり、これに関連づけて「言語的ジェノサイド」に関わる定義を二種類あげる。一種類目の定義は、ジェノサイド条約2条(e)全体と(b)「精神的な危害」の部分である。公教育において、脅威にさらされた先住民族言語やマイノリティ言語を教授する学校やクラスといった代替手段が存在しない場合、多数者集団への言語的移行は自発的なものではなく強制的なものとなるため、上述のジェノサイド条約の条文が該当することになる。二種類目の定義は、ジェノサイド条約草案3条(1)である。当該条文に示される「禁止」の意味は、「直接的」と「間接的」双方を意味する。このことは、幼稚園や学校でマイノリティの教師がいない場合、そして、マイノリティ言語が教育の主要媒体として使用されない場合、その言語使用は日常会話や学校で間接的に禁止されることを意味することになるからである。彼女は、このような状況にある対象として、移民や難民の子どもやナショナルマイノリティの子どもの例を数十にわたってあげる。

 榎澤幸広:「ジェノサイド条約2条と文化的ジェノサイド」
 http://www.tsukuba-g.ac.jp/library/kiyou/2006/07.ENOSAWA.pdf

 上記から容易に導き出せることは、在日朝鮮人が民族教育を受ける権利を実質的に保障していない日本は、「教育制度を通じてジェノサイドに加担している」ということである。例によって日本はジェノサイド条約を批准していないのだが、「日本国憲法98条2項は「日本国が締結した条約及び確立された国際法規はこれを誠実に遵守することを必要とする」と定め、国際協調主義を宣言している」ことからも、「ジェノサイドの禁止に対して国際的責務を負うことになる」と読むのが妥当だろう。

 日本社会が、カルデロン一家の長女からタガログ語を奪ったように、アイヌ語を絶滅の淵に追いやっているように、公教育を通じて「移民や難民の子どもやナショナルマイノリティの子ども」から、かれらの言葉を奪い取ることは、どんな理由を持ち出したところで正当化することはできない。同じ理由から、かれらにとって唯一の自然言語となりうる手話をろう児から奪う「普通教育」を行うことも許されないだろう。

 こうした公教育のあり方を支えているのは、「在特会」などのごく少数のレイシスト集団ではなく、日本社会において圧倒的多数を占める日本人マジョリティである。外国人に対する排斥が常態化している日本社会では、あえて「在特会」の主張に賛同するまでもなく、マジョリティはレイシストたりえるのであって、「在特会」を批判することが「左翼」的であり「リベラル」であるといったような幻想は捨てなければならない。