あえて言おう、カスである、と。(2)

 昨日の続きです。

「「私はこう思う」各地で聞く」(2009.04.06 朝日新聞 31面)

 次ページでは、「児童ら避難■漁一時休止」という見出しで秋田と岩手からの声が、「困惑 在日「共生に打撃」」という見出しで在日朝鮮人の声が紹介されている。記事の右上には、前ページと同様、「緊張」という巨大な文字がレイアウトされている。

 北朝鮮が5日に発射したミサイルとみられる機体は、秋田、岩手両県の上空を越え、海に消えた。天を仰いでも目に見えない物体に生活はかき乱されたが、実際の被害はなかった。北朝鮮への怒りの一方で、脅威を利用するかのような空気に冷静な視線を向け、外交努力を政府に促す声もある。

 5日の午後には、街宣右翼など約20の団体が、朝鮮総連の中央本部前で、「抗議活動」をしている。「朝鮮総連によると、福岡県本部に3月下旬「ミサイル発射やめろ」と書かれた紙に包まれた石が投げ込まれ、朝鮮学校には脅迫めいた電話がかかっているという」。「実際の被害はなかった」というのは、「(日本人による朝鮮人への)実際の加害があった」と正しく言い換えるべきだろう。

 北朝鮮:ミサイル発射 列島緊迫、怒りと抗議/「通過」に住民ほっと(その1)
 http://mainichi.jp/hokkaido/seikei/news/20090406ddr041030007000c.html

 秋田と岩手からの声は、前ページのコメントとさほど変わらないので、ここでは飛ばす。最も問題なのは、在日朝鮮人インタビューイーが、口をそろえて北朝鮮への批判をせざるをえないような構造的暴力があること、そして、日本社会がそうした状況を構造的暴力のさらなる強化(在日朝鮮人に対するより一層の分断支配や改憲など)のために利用しようとしていることである。

 93、98年のミサイル発射後には、朝鮮学校の生徒が民族服を切られる事件が相次いだ。「発射を国家間交渉に利用する北朝鮮は良くない。しかし、今回もまた日本社会が同じように反応してしまうなら、それも残念。国家と個人は別なのに」

仲間から、北朝鮮にいる親族がいかに困窮しているかを聞く。北朝鮮はそんな中、巨額の費用をかけて発射に踏み切った。「みんな、そんな場合じゃないのに何でそんなことを、と思っている」

 民団は北朝鮮政府に抗議文を出した。このことは北朝鮮ではなく日本社会の異常さを物語っている。ちなみに、民団の公式サイトは、朝鮮語と日本語と英語のページがあるが、それぞれの読者層をかなり強烈に意識して作られている(ように思う。ざっと見た限り)。マジョリティの最大の特権のひとつは、他者を傷つけながら鈍感に生きていけることなのかもしれない。