ストーカー化するリベラル・左派論壇(1)

 『情況』の3月号で「田母神論文の批判的考察」という特集が組まれているので読んでみた。


↑『情況』2009年3月号

 ていうか、マジありえないんですけど。勢いで日本タグと情況タグを作ってデバッグしちゃったんですけど。日本のリベラル・左派論壇って、非モテをこじらせてストーカー化してたのか?まるで宣伝になってないけど、もういいです(Uさん、改めてごめんなさい)。普通に批判します。

 「田母神論文の批判的考察」として掲載されてる7本の論文のうち、3本が「侵略には、連帯感のゆがめられた表現という側面もある」という竹内好のDV史観*1を持ち上げてるって、どういうことですか?これで「田母神論文の批判的考察」??あまりにも読者をバカにしているし、何より田母神っちに対して失礼です。

 念のため書いておくと、竹内好に依拠しない残りの4本の論文は、上の批判には当たらないです。特に、来須宗孝の「田母神問題について」は、アウシュヴィッツ否定論、ヒトラーファシズム賛美論が禁ぜられるのは自由の抑圧でも何でもない」*2「田母神発言は・・・日本人の歴史認識という基本問題なのである」*3「普遍的妥当性を志向していない思考と表現は、理論として教説としてだめなのである」*4と述べるなど、田母神論文をきっちり批判しています*5

「侵略はあった。しかし、それは連帯の表現でもあった」

 佐藤優の連載を「まるで絶対知の世界に到達した感じ」と絶賛した編集後記(発行人の大下敦史の執筆)には、

ことの本質は日本の国家主権がアメリカの統制下にあるということでしかない。アメリカの属州であるという日本の戦後的存在がどうなるのかが、基本問題なのだ・・・すべてがアメリカ統制下の利権遊びの世界と言えばいいのかな。その後は『正論』『諸君』『WILL』で、例の「侵略はなかった」という嘘を撒き散らしている。その中心母体は産経新聞なのか。日本人の恥さらしみたいなことは言うもんではない。最近では『東大一直線』の小林よしのりあたりも「権力」に迎合するお調子者らしく、この嘘つき陣営にどっぷり漬かっているようだ。*6

とある。まさに、高橋哲哉が「右派の国家主義とは一線を画するとしながら、「健全なナショナリズム」に落とし所を見出す言説」*7と批判した言説そのままだ。そもそも竹内好を<歴史認識>論争の参照軸にする限り、「侵略はなかった」という嘘が、「侵略はあった。しかし、それは連帯の表現でもあった」という、すさまじい欺瞞に代わるだけである。むしろ、こちらの方が悪質だとさえ言えるかもしれない。少なくとも、歴史修正主義者は侵略を是としていない(だからこそ必死にそれを否認しようとする)のだから。

 大下敦史は続ける。

 ・・・この卑屈な連中はアメリカやイスラエルが何を世界中でしているか百も承知な連中なのだ。自分は戦争もやる気がないくせに、卑屈に追随する腐った連中でしかない。田母神もわたしも同じ戦後生まれだと思うが、日本人としての誇りの意味をはきちがえているな。親父たちの世代、二等兵たちの苦労の意味をはきちがえている。本気でやるなら退職金などもらわず三島由紀夫のあとを継ぐべきだろう。わたしの感じでは、三島はあの世で泣いているな。自分たちの決起はなんだったのかと。*8

 あのー、「この卑屈な連中」の的には、どう考えても、イスラエルの代弁者の佐藤優がクリーンヒットすると思うんですけど。それから、日本はすでに対「テロ」戦争に参戦してるんですけど。よしりんにやる気があろうとなかろうと関係ないんですけど。ついでに言えば、三島のナルシシズムにもついていけないんですけど。日本人でなければなおさら息切れすると思うんですけど。

 しかし、話はどんどん進む。

 ・・・そこで、田母神論文の批判的考察は、大きく二つである。
 一つは、過去の侵略・戦争、そして革命の経験を経て、アジア主義、現在の東アジア問題をどう考えるのか・・・そもそも竹内好の問題提起と思想的格闘はどう深められ継承されているのか。さらに、魯迅竹内好論に踏み込んでいきたいです。
 二つは、田母神論文の具体的批判です・・・*9

 「田母神論文の具体的批判」ではない3本の論文が、DV史観にもとづいていることは最初に述べた。問題は、実質的な田母神論文批判になりえないこうした論文を、なぜわざわざ「田母神論文の批判的考察」として紹介しなければならないのか、ということだ。その答えを考えるためにも、各論文について具体的にバグ取りをしてみる。

  1. 孫歌、丸川哲史、「国家・革命・戦争」孫歌氏インタビュー
  2. 丸川哲史、「竹内好「近代の超克」論、あるいは第三世界の主権(談話)」
  3. 加々美光行、古賀暹、「竹内好の視座から見た田母神論文 ―日本社会の無思想性の意味を考える―」

姜尚中がアイドルになったわけ

 まずは、最初の「国家・革命・戦争」について。このインタビューでの田母神論文の扱いは、「梅のつぼみもまだ堅いようですが、ますますご健勝のほどお喜び申し上げます」という時候の挨拶程度である。toledさんではないけど、田母神っちはほんとうにかわいそうだ。相手にもされていない。

 そもそも、インタビューアーの丸川哲史の問題意識がひどい。

丸川 「さて私自身、この論文を読んでみて思ったのは、そのイデオロギー的な方向性が良いとか悪いとかいう以上に、戦後空間が持っている様々な問題性が凝縮されているように観察される、ということです」*10

という東浩紀なみのスルー力にもびっくりだが、

孫歌 「今年、中国語でジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』が出版されました・・・幸いなのは、それまでにたとえば竹内好の『近代の超克』(中国語版)という本も訳されていて、まだまだ不十分ではありますが、丸山真男の一部の著作・論文も訳されています。そういった戦後世代の思想的テクストが徐々に訳されていって、これから一つの構造がおそらく作られるだろう、と私は予感しています」*11

と応じる孫歌にもびっくりである。「僕はたしかに君を殴ってしまったかもしれない。でも、それは君を愛しているからだし、君を殴ったときには僕だって拳が痛かったんだよ?」というDV史観を受け入れて、被害者も加害者を理解するために努力するべきだという論旨を展開する。「いつか君も僕のことをわかってくれるよね」と勘違いしているストーカーにとっては、これ以上ないほど甘い囁きだろう。

孫歌 「私は沖縄の戦後体験を重く受け止めたい。そのような思い体験を軸にしながら、本土の知識人エリートたちの思想を読む時に、私はむしろそれを同じ危機(米国のコントロール下における独立という課題)に対する反応として受けとめ、敢えて沖縄問題とは対立させないで、そこに共通項を見出そうとしたいと思います」*12

というあたりも、日本の面積の0.6%にすぎない沖縄に、米軍基地の75%を押しつけておきながら、あくまで自分たちが被害者であると思っていたい「本土の知識人エリートたち」には受けるだろう。

孫歌 「さらに言えば、中国では少数民族の問題があり、日本でいえばアイヌ問題もあって、これは民族問題というより、この地域での昔からの社会生活様式ということですね。その地域の人間の生活様式自体は決して国家という視座だけでは把握できないものです」*13

というのも、ひどすぎる。ここには、国民国家の歴史の中で沈黙させられてきた人々への応答責任という問題意識がまったく欠けている。ここまでマジョリティにすり寄らなければ、今の「リベラル・左派」論壇では生き残ることができない、ということなのだろうか?たとえば、姜尚中はほとんどアイドルのようになってしまったけれど、彼がテレビに出まくっているのは、日本社会が姜尚中を受け入れたからではない。姜尚中が日本社会に日和ったのである。そして、それは彼だけの責任ではもちろんない。

 そんな感じで次回に続く。

*1:暴力も歪んだ愛情表現であるとかなんとか

*2:来須宗孝、「田母神問題について」、『情況』2009年3月号、p.147

*3:同上、p.148

*4:同上、p.149

*5:突っ込みどころがなくもないけど

*6:編集後記、『情況』2009年3月号、p.253

*7:高橋哲哉編、『<歴史認識>論争』、作品社、2002年、p.2

*8:同上

*9:同上、p.254

*10:孫歌、丸川哲史、「国家・革命・戦争」孫歌氏インタビュー、『情況』2009年3月号、p.100

*11:同上、p.101-102

*12:同上、pp.109-110

*13:同上、pp.110-111