カルデロン一家への支援と処分をつなぐもの

 カルデロン一家の離散処分が決定した件について。

 何よりもこの決定を批判する立場から、一家を支えようとする論理に内在していた問題点について考えてみたい。

 この間、一家の在留特別許可を求める動きとして、2万人以上の署名の集約や、埼玉県蕨市議会による意見書の採択などがあり、マスコミの中にもそれに同調する流れがあった。たとえば、3月12日付の朝日新聞は「フィリピン家族 森法相はここで英断を」という社説を、3月13日付の毎日新聞は「カルデロンさん 親子在留を許すべきケースだ」という社説を掲載し、日本は一家を受け入れるべきだという主張を展開した。

 カルデロン一家を支えようとする(日本人側の)論理に内在していた問題点とは何か?それは、一言でいえば、ナショナルな言説に回収される論理でしか、かれらの在留を正当化できなかったことではないかと思う。

 具体的に挙げてみよう。まず、カルデロン一家の物語は、かれらが日本に不法入国したときに始まることになっている。

みなさん三人も、みなさん三人の支援者も、こんな文を書く私も、全員が最初から認めている通り、アランさんとサラさんの日本入国のときのいきさつはたしかに不法行為でした。(どうして日本の入管が当時それに気付かなかったのか、本当に不思議ですけど...。)みなさん三人を日本から退去させることに賛成する人たちの意見を改めて聞くまでもなく、誰もがそのことを知っています。

 村野瀬玲奈の秘書課広報室:「カルデロンのり子さん、ごめんなさい。」
 http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-1119.html

 ここでは、カルデロン一家の物語は、かれらが日本に不法入国せざるをえなかった経済格差の物語としては語られていない。かれらが出稼ぎのために他人名義のパスポートで来日した1992年当時、日本の一人当たりGNPは、フィリピンの40倍近く*1にも達していた。

 「・・・この様な著しい経済格差の存在は、わが国の企業進出と多国籍企業の経済進出とがあいまって、フィリピンの鉱物資源、漁業資源、農業資源などを無秩序に買いあさったことにも起因する。彼らの「貧しさ」は、日本の「豊かさ」とは無関係であるとは言えない」

 丹羽雅雄:「日本における外国人労働者の差別と人権」
 http://blhrri.org/info/book_guide/kiyou/ronbun/kiyou_0067-05.pdf

 カルデロン一家の物語を、日本企業によるフィリピンへの進出と、その富の収奪、格差の再生産というグローバリゼーションの問題から隔離することで、私たちは自ら裁かれることなく、一家に対する「寛容」を主張できるようになる、というわけだ。物語の出発点をかれらの不法入国以前に置こうとしない、一家の在留擁護論は、先進国の国民であることによって自らが享受している特権を批判的に再考する代わりに、ナショナルな言説に落とし所を見出そうとする。

 具体的には、一家の在留を求める「良心」的なリベラル・左派の論理は、長女の「日本人」性―日本社会への同化―を肯定し、それをアピールする方向へ進むことになった。

・・・日本で生まれ育ち、日本語と日本文化の中で成長しているのり子さんはなおさらです。のり子さんは、勉強が好きで、一緒にダンススクールを開きたい日本人の友達もいる、立派な中学生です。普通の日本人の中学生で勉強が好きでない子どもが大勢いることを考えたら、のり子さんは平均的日本人中学生に負けず劣らず立派だと思います。私は大人(?)の一人としてのり子さんの努力にも心から深い敬意を払います。

 一家の長女が、「日本で生まれ育ち、日本語と日本文化の中で成長している」から、「平均的日本人」に「負けず劣らず立派だ」から、(その家族に対しても)在留を認めるべきだという主張は、独自の言語や文化を守りながら、それでも日本で生きていくことをあえて選ぼうとする外国人を排除しようとすることと、実はそれほど変わらないのではないだろうか?

 日本人と同じような*2外国人なら受け入れるべきだという「寛容」は、日本社会に適応できない(しようとしない)外国人への「非寛容」、つまり、同化主義という差別の一側面でしかない。「のり子さんは平均的日本人中学生に負けず劣らず立派だと思います」という(おそらく)善意の言葉が、外国人に対してどれほど侮辱的で差別的なものであるか、発言者とその賛同者は真剣に考えるべきだと思う。

私が憂えるのは、みなさん三人をフィリピンに追放することに賛成する意見の中には、ほとんどいじめ、嫌がらせ、国籍差別のようなものが目立つことも事実だということです。いじめ、嫌がらせ、国籍差別のような考えを述べる人と比べたらもちろんのこと、みなさん三人をフィリピンに追放することに良心的に(?)賛成している人と比べても、今のみなさん三人は十分に立派な生活をしていると思います。

 「みなさん三人をフィリピンに追放することに良心的に(?)賛成している人と比べても、今のみなさん三人は十分に立派な生活をしていると思います」というのは、どういう意味なのだろう?「ストレートな排外主義を唱える、社会の底辺にいるような日本人と比べたら、カルデロン一家の方がよほど「日本人」らしい豊かな生活をしています」とでも言いたいのだろうか?そうだとしたら、もう救いようがないと思う。

 朝日や毎日が一家の在留を求める社説を出したのは、これらの新聞が他紙と比べてリベラル・左派的だからではなく、むしろ、一家を支えようとする日本のリベラル・左派がナショナリズムに適合的になってきているからだろう。実際、朝日の社説には「・・・彼女は日本で生まれ育ち、日本語しか分からない。「母国は日本。家族とも友だちとも離れたくない」という・・・彼女の望みをかなえることが、日本社会に不利益を及ぼすとは思えない・・・社会の一員として認めるべき外国人は速やかに救済する。そんな審査システムをつくることが検討されていい」(2009.03.12 朝日新聞 社説)とある。

 カルデロン一家への支援がナショナリズムや「国益」の論理を内面化しているなら、長女ほどには「日本人」的になりえない両親に対して、在留を許可するか強制送還するかを法相が自らの裁量(要するにナショナリズムや「国益」の論理)で決めることについて、本質的な異議申し立てをすることなどできない。カルデロン一家への支援と処分をつなぐものを、今からでも私たちは問い続けなければならない。

*1:世界銀行の統計による

*2:そもそも基準がよくわからないが