日本人は在日朝鮮人に対して「人間」になれるのか

 id:lmnopqrstuさんとid:Arisanさんとの議論について、思うところを具体的に書きます。と思って書いていたら、先にArisanさんが「みなさんへ」を更新されていました。どうしようか迷いましたが、せっかくなのでアップします。

>lmnopqrstuさん
 (別件で)idコールをいただいていたのに、長いこと気づかずにいて、申し訳ありませんでした。「日本の戦後体制とフィリピン人の関係の歴史的基礎についてのメモ」には喚起される点が多かったので、近いうちにトラックバック記事をアップします。

>Arisanさん
 Arisanさんの文章からは、これまでも多くの示唆をいただいているので、僭越かもしれません。が、どうしても流せないことだったので、ここで伝えさせてください。

日本人は在日朝鮮人に「援助」できるのか

 基本的な視点として、私は、lmnopqrstuさんの以下の指摘はまったく正当だと思います。

日本人左翼は、「「自己決定権」というものを集団を作り参加する権利というように狭く捉えた上で、その権利の保障(肯定)こそが、在日朝鮮人の生の(権利の)全体を保障する基礎となる、という考え」を批判する暇があったら、他者の解体=支配を止めない自分たちの集団の論理をまず批判=解体すべきである。

 lmnopqrstuの日記:「Arisan氏の自己批判を批判する」
 http://d.hatena.ne.jp/lmnopqrstu/20090329/1238350534

 このことについて民族教育を例に考えてみます。まず、民族教育を選択するかどうかについての在日朝鮮人の自己決定権が議論にのぼる一方で、国民主義にもとづく日本の「普通」教育のあり方が問われないような構造は、植民地主義以外の何物でもないと思います。

 また、Arisanさんは日本政府による民族教育への「援助」の必要性を主張されていますが、日本政府がするべきなのは、「援助」ではなく、補償ないし賠償です。少なくとも、日本政府による民族教育への弾圧(を日本人マジョリティが今なお支えていること)を考えれば、「援助」という概念をそこに当てはめる日本人の論理は、ごく当たり前に批判=解体していくべきだと考えます。

在日朝鮮人が日本政府の政策のもとで置かれて来た状況、歴史的経緯を踏まえれば、日本政府が民族教育や福祉などの面で、何らの援助を行わずに来ている現状そのものがすでにまったく不当・・・

 Arisanのノート:「金光翔さんの記事を読んで」
 http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20090324/p1

 つまり、(私自身を含めた)日本人は在日朝鮮人に「援助」をすることはできません。民族教育については、下記にわかりやすくまとまっている*1ので、歴史的経緯をあまりご存知ない方は、ぜひご覧ください。朝鮮学校を「各種学校」として徹底的に差別する日本の「普通」教育のあり方についての具体的批判もあります。

 金東鶴:「民族教育の権利を知るための22のキーワード」
 http://www.k-jinken.ne.jp/minzokukyoiku/22key.htm

日本人は在日朝鮮人に対して「人間」になれるのか

 生きていくのは人間なんだから、その人にとって必要なのであれば、民族が尊重されればよい。重荷になるのであれば、脱ぎ捨てればよい。
 それは、それこそ自己決定ではないですか?

 Arisanのノート:「介入について、その他(末尾追記・訂正)」
 http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20090403/p1

 この点については、id:F1977さんの「倫理の鏡」の蛇足にしかなりませんが、個人的に最も引っかかった部分なので、蛇足のまま書いておきます。

 民族性を重荷に感じている在日朝鮮人*2は、具体的にどうすれば民族を「脱ぎ捨て」ることができるのでしょうか?あるいは、性的少数者はどうすれば自らが少数者であるというアイデンティティを「脱ぎ捨て」ることができるのでしょうか?

 そもそも、アイデンティティとは自由に選べるものだという発想が、マジョリティの無神経さをさらけ出しているように思います。「守られねばならないものは、人間の生以外のものではない」というArisanさんの人間主義は、残念ながら、生身の在日朝鮮人が抱え込まされている矛盾や葛藤、日常的なリアリティを、パフォーマティブに抑圧するものだと言わざるを得ません。

 率直な疑問なのですが、天皇を頂き続けるだけでなく植民地支配の責任もとれない日本の戦後体制が、在日朝鮮人の「罪」についてはずっと(一方的に)裁き続けていること自体への驚き、苛立ち、違和感、焦り等々をもっていない(と私にはどうしても思われてしまう)氏の依拠する人間の倫理というものが、私には本当のところよくわかりません。要するに(歴史的にみて)不条理なこの非対称的関係に拘泥することなく(朝鮮人の前で)人間の倫理を語ってしまう日本人の屈託の無さに対して、どうしても私は倫理的に抵抗したくなる衝動をおさえることができません。

 lmnopqrstuの日記:「Arisan氏へ」
 http://d.hatena.ne.jp/lmnopqrstu/20090404/1238825259

 アジア侵略のイデオローグである福沢諭吉の肖像が、1984年以降、一万円札として使われ続けていることも、日本がアジアの人々に対してどれだけ非倫理的であり続けているかを証明している、としか言えません。「諭吉が恋しい」(お金がない)といったような表現が、在日朝鮮人を凍らせる一方で、大多数の日本人に違和感なく受け入れられてしまうような社会を批判=解体することなく、日本人が「(歴史的にみて)不条理なこの非対称的関係に拘泥することなく(朝鮮人の前で)人間の倫理を語」る資格はないと思います。

 日本人が朝鮮人に対して「人間」というワイルドカード(鬼札)を持ち続ける限り、日本人はいつでも構造的暴力の中にある「倫理」の部屋に逃げ込むことができるでしょう。だから、それはやめるべきなのです。今からでも。

*1:2003年6月時点。2004年度から朝鮮学校卒業者の大学受験資格認定は各大学の裁量に任されている。2007年には玉川大学朝鮮学校生徒の受験を拒否した。

*2:もっとも、民族性を一度も重荷に感じたことのない在日朝鮮人の方が珍しいのではないかと思うが。