日本人原理主義下等(4)

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(4)外国人を監禁する同化の無限階段

 鈴木は、本書の第三章「男性長期非正規滞在者の就労実態」で、1981年12月から1993年2月までに初来日した男性非正規滞在者28名(国籍別の内訳は、バングラデシュ10名、フィリピン7名、パキスタン2名、韓国5名、イラン・中国・ビルマ・ネパールがそれぞれ1名ずつ)に対して聞き取り調査を行い、第四章「社会構造と男性非正規滞在者の就労行動」で、その結果を分析している。以下に鈴木の分析結果を引用する(強調は引用者による。以下同様)。

 男性長期非正規滞在者の就労の通時的変化を分析した結果、彼らが、出身国のいかんを問わず、日本での就労や生活において蓄積した資源を活用して、社会構造に対して能動的に働きかけ、職場や労働市場での彼らの評価を高めているということが明らかになった。もはや彼らは、初期の調査研究において描かれたような、特段の技能や技術を必要としない仕事を担う安価な労働者でもなければ、職業選択の自由をまったくもたない受動的な労働者でもない。賃金だけを基準に頻繁に転職する労働者でもなければ、解雇されやすい労働者でもない。*1

 換言すれば、職場や労働市場における上昇移動という彼らの変化は、さまざまな社会構造との関係において実現したともいえよう。日本社会で、合法的な滞在資格をもたない彼らが、地位を上昇させたり安定化させることができたのは、本人の主体的な努力に加えて、彼らを受け入れ、その存在を承認してきた職場や地域社会、彼らの労働力を必要とした雇用主、さらには、それらを可能とした公的空間における非正規滞在者に対する黙認・放置があったからこそである。*2

 では、鈴木の言う、非正規滞在者による「社会構造」に対する「能動的」な「働きかけ」、「本人の主体的な努力」とは何を指すのだろうか。これまでの流れからすれば当然のことながら、それは日本社会への「能動的」かつ「主体的」な同化ないし親日化への「努力」を意味している。

 日本で働き、生活していくなかで、彼らは次第に日本社会のしくみやルールを理解し、日本人とのつきあい方を学んでいく。長く非正規滞在者と接してきたA.P.F.SのY氏は、「年月のなかで、外国人もかなり『スマート』になっていった。日本のシステムや日本語を学び、社長の傾向を読んでたちふるまいができる者も増えてきた」と語っている。長期非正規滞在者は、自身が働き、生活している社会のなかで、どのような行動が好ましいとうけとめられるかということを知り、日本社会で生きていくためのふるまい方を身につけていったのである。*3

 日本で働き生活するなかで、日本人とつきあい、日本社会について学び、日本が好きになっていくことによって、彼らの生活にも変化が生じる。お金を稼ぐことを目的としながらも、次第に、日本での生活を充実させたいと思うようになっていく。

滞在が長期化し、次第に母国に帰るという気持ちが薄れ、日本での生活の充実や継続を志向するようになった非正規滞在者は、もはや、単なる「都合のいい労働力」ではない。日本での生活を楽しもうとする意識は、仕事に対する彼らの選択基準に変化をもたらす。滞在の長期化にともなって入職経路が多様化したこともあり、非正規滞在者たちは、仕事内容ややりがい、勤務時間や勤務場所など、賃金以外の基準を総合的に判断して仕事を選ぶようになる。滞在が長期化するなかで、非正規滞在者の「存在の根拠」は、次第に、母国から受入れ国である日本に移っているのである。*4

 こうした論理からすれば、日本で働き生活するなかでも、「日本人とつきあい、日本社会について学び、日本が好きになっていく」ことのない非正規滞在者や、日本よりも母国に「存在の根拠」がある(と日本国家/日本人が見なす)ような非正規滞在者は、「単なる「都合のいい労働力」」であり、人間として扱う必要は特にない、ということになる。非正規滞在者の「存在の根拠」を母国と日本の二者択一でしか測ろうとしない日本国家/日本人の発想が、国境をまたぐ生活圏に生きる外国人の実相を切り捨て、排除と同化を合理化する論理に行き着くことは言うまでもない。

 本書を読みながら、ふいに、Goo-Shun Wangという学生が製作した「Hallucii」(ハルク・ツー)という作品を思い出した。Halluciiは、エッシャーの無限階段に閉じ込められた空間を描いた4分弱の映像で、YouTubeからも見ることができる。非常にうまくできている作品なので、動画を見られる方はぜひ一度覗いてみてほしい(以下ネタバレを含む)。

 Halluciiが興味深いのは、無限階段という錯視世界を作り出し、そこに人を閉じ込めているものの正体が、複数の監視カメラである、ということだと思う。Goo-Shun Wangがどのような意図を持って作品を作ったかはわからないのだが、私には、この作品が、あたかも外国人を孤立させて監禁する、同化の無限階段であるかのように思えてきたのである。もちろん、ここで言う監視カメラとは、日本人の「まなざし」のメタファーである。

 レイシズムが社会の基調をなす日本社会では、外国人にとって、同化とは終わりのない自己否定であり、差別への果てしない隷属を意味する。日本国家/日本人は、外国人一人一人に対して、自らが作り出す同化の無限階段を、たった一人で昇り続けることを強いているようなものだ。ときには「敵対的なまなざし」で外国人を射抜き(保守)、ときには「好意的なまなざし」で外国人を見守り(リベラル)ながら、日本国家/日本人は、外国人に同化の序列をつけ、外国人の階層(「カースト」)化を進めていく。

 無限階段に閉じ込められた酔っ払い氏がそこから脱出できた*5のは、無限階段の世界における論理の無力さを思い知り、いわばキレる形で監視カメラを破壊することができたからである。一方、同化の無限階段においては、日本人原理主義が論理を絡め取る、その不条理を誰よりも痛感している外国人の手には、監視カメラを一撃で粉砕してくれるようなビール瓶はない。それどころか、外国人がただ監視カメラを睨みつけたり、その場に立ち止まったりすることさえ、日本国家/日本人は「反日」であると表象しようとするのである。

 こうした構造はまさに不正義の権化としか言いようがないが、鈴木も坂中と同様に、(日本人が政府やメディアに騙されやすいと鈴木が考えていることも含めて)基本的には日本社会の「善良」さに疑いをいだいていない。そのため、日本社会が外国人に対してするべきことは、自らの排外主義を批判的に解体することではなく、むしろそれを無自覚に温存したまま(それは問題ではないのだから)、外国人を親日化に「優しく」導いてやることだということになる。

 また、本国人である日本人とのつきあいは、見知らぬ国で働く彼らにとって、単に仕事を紹介してもらうだけではなく、日本の賃金水準や職場慣行についての情報や助言をえるという点でも大きな役割を果たしている。

 加えて、日本人とのつきあいは、非正規滞在者の生活面でも、重要な意味をもっている。休みを一緒に過ごす、困ったことを相談する、家を借りる際の保証人になってもらうなど、日本人との交流によって、非正規滞在者の日本での生活はより豊かなものとなる。その結果、仕事の充実度が増すとともに、日本での生活を楽しむことによって、日本が働くためだけの場所ではなくなり、帰国が延期され、滞在が長期化する要因にもなっている。

 さらに、非正規滞在者が働き生活している地域において、匿名の外国人ではなく、△△出身の「○○さん」という名前をもった「顔の見える存在」になることによって、ホスト住民が抱くかもしれない漠然とした不安は軽減され、彼ら自身にとって、安心して暮らすことができる場所となる。近隣住民と顔見知りになり、あいさつをかわしたり、親しくつきあうことによって、非正規滞在者は、通報リスクを低下させることが可能になる。日本人とのつきあいの進展・拡大によって、非正規滞在者は、安定した就労や生活の場を日本社会に築くことができたのであった。*6

 外国人の自己決定権(主体性)を認めようとしない制度的・社会的差別をさほど問題だと感じていない鈴木が思い描く、「善良」な日本人と「善良」な外国人とのあるべき関係性がよくわかるというものである。後半にいたっては、「外国人を見たら通報しよう」などという、「在日特権を許さない市民の会」ですら、さすがに言い出せないようなレイシスト的発言さえ擁護され、外国人が日本人レイシストに通報されるのは、レイシストが抱く「漠然とした不安」を思いやることができなかった外国人の自業自得だということになってしまう。まるで論理のターミネーターである。

 さらに恐ろしいことに、鈴木は、本書の執筆時点ですでに、インタビューイー28名のうち、少なくとも10名が実質的に強制送還されたことを明かしているのである。よくもまあ、「日本人とのつきあいの進展・拡大によって、非正規滞在者は、安定した就労や生活の場を日本社会に築くことができたのであった」などと白々しい考察ができるものだと思う。極端な話、日本人さえいなければ、「非正規滞在者の日本での生活はより豊かなものとなる」のではないか。

 ただ、おそらく鈴木にとっては、インタビューイーが強制送還され、新たな在留管理制度関連法によって、非正規滞在者が住民基本台帳から除外され、母子保健や教育といった最低限の行政サービスからも排除されてしまう現状があるからこそ、かれらがいかに日本社会に適応し、「国益」に適う「善良」な存在であった(ある)かをアピールすることが、喫緊の課題となっているのだと思う。そして、そのために日本社会のリベラルな日本人原理主義化(鈴木自身は単に「リベラル化」と認識していると思うが)をいっそう推進しようとしているのだと思われる。外国人を同化の無限階段に監禁しながら、外国人への「支援」を云々するような欺瞞に対しては、誰よりも先に日本人こそがビール瓶を投げつけなければならない。

(次回に続く)

*1:鈴木江理子、『日本で働く非正規滞在者―彼らは「好ましくない外国人労働者」なのか?』、明石書店、2009年、p.488

*2:同上、p.489

*3:同上、pp.446-447

*4:同上、p.241

*5:実は脱出できていないという話もあるが。

*6:同上、p.446