村上春樹にスピーチの感想を届けるよ!

 再びタイトル通りのエントリーです。呼びかけ文はこんな感じで。転送歓迎。

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 2月15日、村上春樹エルサレム賞を受賞し、イスラエルを批判するスピーチを行いました。これは、エルサレム賞のボイコットや、受賞スピーチでのイスラエル批判を求めていた私たちへの、村上春樹の応答で(も)あったと思います。

 そういうわけで、村上春樹にメッセージを返すことにしました。便乗してくださる方を募集します。以下の条件に当てはまり、かつ時間のある方は、下のフォーマットをコメント欄*1から送ってください。メッセージはひとことでもOKです。締切は3月1日(日)あたりで。

【条件】

  1. 村上春樹エルサレム賞受賞スピーチ(全文)を読んだ。
  2. 村上春樹エルサレム賞受賞または受賞スピーチに関して本人に伝えたいことがある。

※受賞スピーチ(全文)は、sho_taさんのサイトなどからご覧いただけます。このブログにも対訳があります。

 しあわせのかたち:「村上春樹スピーチ全文和訳」
 http://d.hatena.ne.jp/sho_ta/20090218/1234913290

【フォーマット】

名前:(ペンネーム、イニシャル、無記名でも可)
メッセージ:(ひとことでも可)
公開可否(可の場合、メッセージをブログで紹介させていただきます。)

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 いただいたメッセージは随時更新していきます。

村上春樹さんは「僕はいつでも卵の側に立つ」というのなら、イスラエル国家による褒賞を受けることは矛盾の最たるものにならないでしょうか?イスラエルの在り方は今回の大がかりな大量虐殺をふくめて一貫して彼のいう「壁」であり続けているのではないのでしょうか? このような心性、論理、そのよってきたる所以に目を向け、ひそやかにけれど正確に映し出すことこそが文学の重大な営み、その存在価値の最重要部分の一つだとわたしは理解しています。歳月の波に洗われてなお生き残っている偉大な文学作品は、そのことを十二分に証明していると思うのですが…。イスラエルは自分達の醜悪な政治政策を糊塗するために文学を思うがままに利用し、汚しているのであり、これもまた天をも恐れぬ行為だと思います。

スピーチは貴兄なりの誠実さをもってなされたものと思います。
提案ですが、全世界の貴兄の読者に関連した作品を執筆なされてはいかがでしょう。せっかくイスラエルパレスチナへ行かれたかは存じませんが)へ赴かれたからには、作品でその印象を発表なされてはいがでしょうか?作家としてもっとも選択すべき行動ではないかと、たいへん僭越ながら思う次第です。

エルサレム賞を受賞されたことは、やはり残念に思います。しかし、スピーチで村上さんが伝えたかった核になる部分には納得しました。村上さんはどこで何を見られたのでしょう? 現実に存在している巨大な壁はご覧になりましたか? 直接的なものではなくても、行って見聞きしたことが作品の中で描かれることを期待します。「壁の側に立つ作品には何の価値があるだろう?」という言葉に私も賛同します。

 パレスチナの国民的詩人、マフムード・ダルウィーシュが、国際作家議会に招待されパリに赴こうとした時、イスラエルは出国を許可しなかった。それで、マフムード・ダルウィーシュが国際作家議会をパレスチナに招待することにした。2002年、3月末のことである。パレスチナを訪ねた国際作家議会のメンバーは、議会議長、ラッセル・バンクスアメリカ)、事務局長、クリスチャン・サルモン(フランス)、ウォレ・ショインカ(ナイジェリア)、ジョゼ・サラマーゴポルトガル)、ベイ・ダオ(アメリカ在住中国詩人)、ブレイテン・ブレイテンバック(南アフリカ)、ファン・ゴイテソーロ(スペイン)、ビンチェンツォ・コンソーロ(イタリア)、日本から、鵜飼哲も同道している。ふたりのノーベル文学賞受賞作家(ウォレ・ショインカとジョゼ・サラマーゴ)を含む、文学愛好者にとっては垂涎のメンバーで構成された代表団だった。ふたりのフランス人ドキュメンタリー作家がこの旅を追い、つくりあげたフィルム『境界の作家たち』で、わたしもこの旅を追うことができる。
 彼ら、作家たちの、母国語での朗誦を聴くために集まった聴衆で、ラマッラのアル・カサバ劇場はあふれていた。「マフムードが来れないなら、わたしたちが行こうとやって来た」とラッセル・バンクスは聴衆に語った。マフムードが「言葉の使い手であるあなたたち」と言うように、フィルムは作家たちの惹き込まれる言葉で満ちあふれているが、このフィルムを追うつもりはない。ただ、このフィルムの完成に、同じフランス作家、クリスチャン・サルモンの寄与があったことは疑い得ない。フィルムに流れる彼の声からひとつだけ:「わたしたちが立ち去った三日後、イスラエルの戦車はラマッラを占領し、兵士たちは、わたしたちの朗読の声がまだ鳴り止まないアル・カサバ劇場に侵入した。誰もいない、闇に包まれた劇場を、数時間にわたり、幕を引きちぎり、照明器を破壊し、椅子をひっくり返し、執拗に攻撃した。再発見された言語の可能性を粉砕するかのように。この音誦的闘いの暗示に挑むかのように」
 どこに立つのか? 表現という行為自体、すでに政治性を内在している。表現とはきわめて政治的な行為だから、立つ場所を選択する余地、などない。

 受賞スピーチについて感想をいだきましたのでコメントします。
 まず、感じたことは「上手だな」ということです。非常にうまい。これは褒め言葉ではありません。そつがなく、誰をも傷つけないような言い方、受賞に反対する日本人にも、賞を与えるイスラエルにも、今回のガザ侵攻をした人びとにもほとんど傷つけない配慮とあいまいにしてしまう曇りガラスのような表現、私は「今日は正直に語る」という言葉と裏腹さを感じます。「小説家らしい嘘を今日はしない。正直に語る」など、まったくそれこそ小説家らしからぬ(あるいはらしいのか)嘘です。
 揶揄は所詮、揶揄にしかなりません。そこに真実はないからです。どうとでも解釈できる表現に、イスラエル各誌はスピーチを批判しなかったと安堵とも取れるような報道が日本のマスコミでなされましたが、それは村上さんの言葉には結局力がなかったからだと思います。ただ思わせぶりなことを述べただけにすぎません。今回のガザ侵攻を正当化するイスラエルの人びとをかすかに不快にさせたに過ぎない。
 正直このスピーチを日本人的な観点で聞けば、誠実で深く考えた表現だと捉えられるでしょう。無難でそれでいて聞きようによっては非難にも聞こえる。多くの方々は「日本人として誇りに思う、政治家の話とはまったく違う」などと言っていますし。しかし私は逆に思います、政治家とほとんど変わらないと。そして決して卵の側に立てないのだと、つまり割れるリスクを犯すことはできないのでしょう。
 かつて日本のドラマで有名子役が言った台詞を思い出します「同情するなら金をくれ」。たぶん村上さんの卵の側につくというのは、この同情以上のもののようには思えません。あいまいな意味での同情。しかしそこに不正に対する憤りや怒り、弱者の痛みへの共感は伝わらないのです。今、必要なのは観念的な同情ではありません、その段階はすでに過ぎているのです。卵がまさに今現実に押しつぶされてしまい、そしてまた押しつぶされる可能性があるなら、その側につくというならそういった言葉が出るはずです。行われている行為に、犠牲者の嘆きに呼応して「やめてくれ」と具体的な抗議の声があるはずでしょう。ただ「卵」という、聞きようにとってはどちらにも取れる抽象的な側につくことによって具体的なことから逃げたのです。小説家とはずるいものです。
 イスラエルユダヤ人自身、ある意味卵です。彼ら自身の受難の歴史がそれを語ります。その卵である状態と心情的な味方の無力さによって、自分たちを守るためにイスラエル国家という新たな壁ができたのです。そしてそれはさまざまな要素によって強力な力を得ました。自分たち卵を守るために。そしてまたその壁によって踏み潰すべき新たな卵ができてしまった。そこには卵ではない人間が暮らしていたのですから。そう卵などいらないのです、人間は卵なんかではない。イスラエルパレスチナ人もわれわれも卵のような存在であるべきではない。無力な壊れやすい存在じゃないし、そのようにしてしまうシステムを許容してはいけないのです。システムは卵ではなく人間を守るためにこそ、始めて意味を持つものですから。踏み潰される卵の状態に押しとどめていくことほど残酷なことはありません。それをいくら自分も卵かもしれないと言ったとて決して踏み潰されることはないわけですから。そういった状態に「同情する」かのような無力な言葉は意味があるのか疑問に思います。
むしろ「卵」の意味を「壁」の意味を具体化すべき、抽象化に逃げず、そして起きた事柄伝えられている事柄から感じていることを正直に話すべきだった。それはおそらく摩擦を生んだことでしょう。そして少なからず卵の側に立つひとつの踏み絵だったのかもしれない。しかしあまりにスマートに如才なく立ち回られた。そういった意味で政治的配慮が行き届いていた。「壁」の側の方法論を上手に使ったに過ぎません。結局踏み絵を踏まずにポーズとして踏んだように片方には見せ、他方には踏んでいないように見せられたのです。あまりにも鮮やかでした。さすが小説家、嘘つきを仕事になさっているだけはあります。うまい嘘はむしろ誉められるという冒頭の言葉が皮肉に聞こえます。
 もちろん私は村上さんがどういった立場でも良いと思うのです。それはおっしゃられるとおり見たことしか信じないわけですから。卵が潰されたのを見たわけではないですし。ただし村上さんに疑問を抱いた最大の言葉それは「今日は正直に話す」という言葉一点だけです。それさえ言わなければ、それなりの立場(つまり壁のそしてシステムの一員として)で、挟まれて言えないこともあるのだなと同情もしたのですが。心情的には卵の側につきたいけれど、賞ももらってしまったしな・・・などとおっしゃるならすごく正直だったのですが。私は「カタロニア賛歌」で人が撃たれていく所を見て、面白かったというジョージ・オーウェルのように大ファンになったかもしれません。開高健が24金の真実と述べた、これこそ正直に話すということでしょう。

 自分たちが時代の便宜上作り出した「社会システム」という名の牢獄。
自らの手で作り上げたものならば、壊すこともまた可能なはず。

 私たちはそれをすっかり忘れてしまっていました。
いやそのことを「決して意識に上げない様に」綿密に洗脳されていたというべきでしょうか。

 あのような場で、このようなスピーチをしたあなたの勇気は賞賛に値すると私は思います。
「やるじゃん!!」
ベストセラー作家の本は読まないのであなたの作品に目を通したことはありませんが、これから書店に行った際には忘れずチェックしたいと思います。

 Haaretz紙に掲載されたスピーチ全文を読ませて頂きました。
 とても良いスピーチだったと思います。特に ’Finally, however, after careful consideration, I made up my mind’ という部分と ’The System did not make us: We made The System’ という部分に深く頷きました。
 なるべく二項対立を再生産しない形でのコミットメントを模索しておられる(と、私は理解している)村上さんが、この問題にどうコミットされるのか、大変興味を持っていました。辞退と、受賞してスピーチでイスラエル国家を批判するのと、どちらを私は望んでいるのか、自分でも揺らいでいたのですが、辞退された場合、以前の(?)デタッチメントに戻っただけとも解釈され得たと思うので、やはりこの形が今回の場合は最善だったのではないかと、考えます。ハルキストの中にもこれをきっかけにパレスチナ問題について考える人が増えたと感じますし、政治と芸術を分離することの「愚かさ」に気づいた人も多いのではないかと思います。その意味では、辞退よりもむしろ影響力の大きい決断だったのではないかと考えます。
 今後とも、パレスチナ問題も視野に入れて、二項対立を再生産せずにコミットする可能性を示して頂けたら、後に続く(団塊ジュニア)世代の者として、大変嬉しく思います。

私は先日、今回と同じサイト「media debugger」様経由で、村上さんにボイコットを勧めるメッセージを届けて頂いた者です。
村上さんの受賞スピーチの全文を読みました。まずは、ボイコットを勧める声に耳を傾けてくださり、また、それに言及してくださったことに対して、お礼を申し上げたいと思います。
イスラエルにおいて、彼の国の批判とも取れるスピーチを行った、村上さんの勇気に敬意を表します。

カラヴァンの芸術の顔をしたプロパガンダに触れ、芸術というものに対して(それを心の底から愛するが故に)言いようのない絶望を感じ、芸術と政治の関わりを自覚できない関係者に、激しい憤りを感じていた矢先、村上さんの受賞のニュースが飛び込んできました。
スピーチ全文を読んで、私は心を動かされました。魂の、静かな祈りを感じたからでした。もしも村上さんがパレスチナ問題をまったく無視したなら、私はそれをカラヴァン芸術同様の黙殺と捉え、同様のリアクションをしたと思います。村上さんのスピーチを読んで、私は取り敢えず、思いとどまりました。

しかし一方で私は、何か大きな引っ掛かりを感じ続けました。村上さんのスピーチ全文をコピーして自分の手帳に挟み、何度も読みたいと思う一方で、それを頑なに拒否する自分が居りました。
考えて、考えて、ようやく「引っ掛かり」の正体が分かりました。
村上さん、これから私はあなたに対して、大変失礼なことを書くかもしれません。また日本語を解するあなたのファンが目にすれば、苛立ちを覚えるかもしれません。
お許しください、とは申しません。私には、これを書かねばならない切実な理由があります。

私にとってパレスチナは、曖昧模糊とした正義やら人道やらの問題ではありません。極めて明確、かつ具体的な人命の問題です。
私は、難民にさせられたアラブの人々の肩を持ちます(※)。それは「弱者の方が善だ」などという卑屈な感傷からでも、「とにかく助けなければ」という方向性の定まらない正義感からでもありません。パレスチナ問題に関しては、諸悪の根源がシオニズムであることが、火を見るよりも明らかだからです。
問題の本質が宗教対立や民族対立ではなく、それらを対立させようと仕向ける「政治」にある以上、解決の方法は必ずあります。また「政治」を変えるには、抑圧されている人々の力だけでは不十分です。彼らのように立場の弱い人間の声は、力のある側(イスラエル・米国)によって、意図的にかき消されます。私たちのような外国人が積極的に聴こうとしなければ、それらの声は「最初から存在しない」というプロパガンダに書き換えられます。
そして問題が解決されない限り、アラブ人の、ユダヤ人の命が奪われ続けます。
(※)これはハマスやヒズボッラーを支持することと同義ではありません。

村上さん、あなたの「I do not approve of any war, and I do not support any nation.」という言葉と、エルサレム賞を受け取るという行為には、どう考えても一貫性がないのです。
何故なら「エルサレム賞」というネーミング自体が、既に、あざといほど政治的だからです。エルサレムイスラエルのものであると喧伝し、アラブにとってのエルサレムを黙殺しています。
戦争反対と言うことは簡単です。しかしエルサレム賞を肯定した時点で、それはイスラエルの政治に加担したと見做されても仕方がありません。エルサレムという都市の歴史を踏まえれば、当然です。

村上さんの受賞に際して、ウェブ上では様々な意見が交わされました。
私が愕然とし、戦慄したのは「パレスチナ問題なんて関係ない。文学賞としての価値そのものを認め、堂々と受賞すれば良い」といった意見が、まったく当然のこととして、いくつもの場所で語られることでした。
いったい、政治と歴史と芸術が無関係でいられた時代など、これまでにあったのでしょうか。
芸術を、政治や歴史と完全に切り離して考えることは、単なる現実逃避です。
逃げたっていいじゃないか、逃げることで「個」が守られるならいいじゃないか、だいたい「個」を護ることが芸術の働きではないか、と、ある人は言うでしょう。
いいえ、守られません。逃げようとするほど簡単に「政治」の網に絡め取られるのです。その人だけが絡め取られる分には、自業自得です。私の知ったことではありません。しかし、絡め取られる人が多いほど、それらを吸収して「政治」は肥大します。肥大した「政治」は、立場の弱い人間を蹂躙する口実を得るのです。
つまり、他者(立場の弱い人々)の「個」が蹂躙されるのです。

エルサレム賞」というイスラエルの文化を肯定すれば、自動的にアラブの人々の文化を否定することになる。これは、厳然たる事実です。
文化同士が互いを否定することなんてあり得ない、というのは、単なる現実逃避です。
また、この事実を、単に「悲しいこと」として片付けてはなりません。
何故なら蹂躙されるのは、常に、立場の弱い人間の文化だからです。
日本にいる私たちがユダヤ人の文化・精神史に触れることは簡単です。イスラエルという国が、世界に向けて自国の文化を発信する政治力を、十分持っているからです。そしてカラヴァンの名前は、昨年世田谷美術館長崎県立美術館が勝手に宣伝してくれました。イスラエルという国を知らない人の耳にさえ簡単に届きます。
では、パレスチナのアラブ人の文化はどうでしょう?文化どころか「テロリストや恐怖政治に文化などあるものか」というのが、日本における多数派の正直な反応ではないかと思います。実際にはサイード、ダルウィーシュ、カナファーニーといった優れた文化人・詩人・作家がいるにも関わらず、積極的にアラブやパレスチナを知ろうとしない限り、出会えないのではないでしょうか。
そしてイスラエルの政治は、それはそれは精力的に、パレスチナのアラブ人の文化を蹂躙しています。
政治だけではありません。カラヴァンはオリーブの木を自身の作品のモチーフとしますが、オリーブはパレスチナのアラブ人の、ネイティヴ性の象徴です。アラブ人の生活・精神史に深く関わりのあるモチーフを、あたかもイスラエル独自のモチーフとして用いる。芸術の顔をした暴力です。
弱い立場に置かれた人間の文化の、かき消されそうに小さな声は、近寄らなければ聞こえません。そこから離れるほど、力ある者の大きな声しか聞こえないのです。

私は、文学や芸術には「個」の人間性を護り、強くする力があると信じています。
文学や芸術を護ることは、人間の尊厳を護ることにつながると思います。
しかし、文学や芸術は人間の命から生まれます。
私は、真の意味で文学や芸術が護られるためには、まず人間の命が護られるべきだと思います。

村上さんのスピーチを読み込もうとすればするほど、私は、自分の周りに分厚い壁が張りめぐらされるように感じます。壁は私の魂を護りますが、同時に壁の向こうの、本当は見なくてはならない景色を隠します。(私以外の人にとっては、そうでないことを祈ります。)
イスラエルの人々で、パレスチナのアラブ人が、自分達と同じ壊れ易い卵であると直感できる人の方が、少ないんじゃないでしょうか。そういった前提をも、村上さんのスピーチは許容します。文学は幾通りもの解釈を許容します。逆に言えば、村上さんのスピーチが「人間を殺すシステム」の抑止力たりうるのか、つまり村上さんのおっしゃるメッセージたりうるのかという点で、疑問が残りました。

僕が重要だと思うポイントは一つ。
あなたのスピーチは小説家・村上春樹の技と情念がちりばめられた素晴らしいものでした。ですが、エルサレム賞を受賞する理由には全くなっていない。あのスピーチに続けて、「だから私は受賞を辞退する(保留する)」と言っても何もおかしくないし、まさにそう言ってほしかった。したがって、スピーチの内容は評価しますが、受賞という行為は評価できない、ということに尽きます。

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