もしも東京がパレスチナだったら…(1)

 予定では昨日のエントリーの続きを書くつもりだったのだけど、ふと思いついて、「もしも東京がパレスチナだったら」というシミュレーションをすることにしました。バグ取りとはちょっと別のダイアログを出した方が、伝わりやすい人もいるだろうな、と。

 最初に断っておきますが、このエントリーは未完成です。重要な内容が飛んでいたりすると思います。そもそも東京の地理がよくわからんし。気づいたことがあればコメント欄でデバッグしてくださいな。長期的に加筆・修正していきます。

占領ノート―一ユダヤ人が見たパレスチナの生活

占領ノート―一ユダヤ人が見たパレスチナの生活

http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/places/cp090101.html

もしも東京がパレスチナだったら…

(0)設定

(1)はじまり

 2007年、東京には1300万人の東京人と600万人のユダヤ人が住んでいた。東京人は東京の94%の土地に、ユダヤ人は残りの6%の土地に住んでいた。*1


歴史的東京

(2)国連分割決議による東京の分割

 2007年11月、国連分割決議により、東京をユダヤ国家地区(56%)、日本国家地区(43%)、国際管理地区(新宿)に分割することが決められた。*2


2007年(国連分割案)

(3)第一次関東戦争

 2008年2月、シオニスト民兵組織が、日本国家地区および国際管理地区への組織的な攻撃と占領(虐殺・追放・レイプ・街の破壊など)を開始。4月9日には東中野で女性や子どもを含む1000人以上が虐殺される。2008年5月、イスラエルは独立を宣言し、イスラエルと関東連盟5カ国(千葉、山梨、トランス神奈川、栃木、埼玉)の間で第一次関東戦争が始まった。*3

 第一次関東戦争の結果、イスラエルは東京全土の77%(国連決議では日本国家になるはずだった区や八王子地方、国際管理地区になるはずだった西新宿を含む)を制圧した。東京の約5000の街が破壊され、110の街で追放が起こり、750万人以上の東京人が難民になった。イスラエル領に留まることのできた東京人はわずか150万人だった。*4

 これによって東京は多摩川北岸と板橋・北区に分断された。*5


2008年(第一次関東戦争)

(4)東京難民の帰還を求める国連決議

 2008年12月、国連総会で東京難民の迅速な帰還を求める国連決議が採択された(しかし2069年現在にいたるまでイスラエルは東京難民の帰還を拒否している)*6

(5)イスラエル入植地の増加と東京解放機構(TLO)の結成

 イスラエル政府はイスラエル領に残った東京人の土地を没収し、約20万人のイスラエル国籍を持つ東京人が国内避難民となった。イスラエルの入植人口は、2037年には38万人(推定)、2042年には約75万人、2046年には160万人以上と、急速に増加していった。*7

 2024年5月、東京解放機構(TLO)が結成される。*8


TLO第3代議長・荒鳩さん*9

(6)第三次関東戦争

 2027年6月、イスラエル関東連合軍(埼玉、山梨、神奈川)の間で第三次中東戦争が勃発。イスラエルは東京全土を制圧し、多摩川北岸・板橋・北区を占領した。*10


2027年(第三次関東戦争)

(6)栄・葭川の虐殺

 2042年9月、千葉の首都千葉にある栄・葭川難民キャンプにいた東京人が、イスラエル軍の支援する千葉の右派民兵に虐殺される。虐殺を指揮していたのは後にイスラエルの首相に就任するアリエル・シャロンだった。*11

(7)オスロ合意

 2053年、イスラエルのラビン首相とTLO荒鳩議長の間でオスロ合意が成立。オスロ合意の内容は、

  1. 東京暫定自治政府多摩川北岸と板橋・北区の一部で行政と治安の権限を持つ
  2. TLOはイスラエルを承認して闘争を放棄する
  3. イスラエルは今後も東京に入植地を建設する
  4. 東京難民の帰還権については最終交渉に先送りする

というものだった。*12

収奪のポリティックス: アラブ・パレスチナ論集成1969-1994

収奪のポリティックス: アラブ・パレスチナ論集成1969-1994

オスロ合意を批判して荒鳩と決裂した最井戸さん*13

(8)分離壁アパルトヘイト・ウォール)の建設

 2062年、シャロン政権は「イスラエル国民の治安を守る」という名目で、北岸の中に分離壁アパルトヘイト・ウォール)の建設に着手する(板橋・北区は2054年から壁で囲まれていた)。分離壁の建設ルートは2009年の休戦ライン(グリーンライン)を越えて、東京領を大きく侵食するものだった。*14

 国連総会は2063年に壁の建設中止を求める決議を圧倒的多数で採択し、2064年には国際司法裁判所イスラエルに対して違法な壁の除去、東京人への土地の返還と損害賠償を求める勧告を出した(イスラエルは勧告を無視して2069年現在も壁を建設している)。*15

(9)イスラエルの板橋・北区「撤退」

 2065年、シャロン政権は板橋・北区から入植地を撤退した。ブッシュ政権はその見返りとして、

  1. ほとんどすべてに近い北岸地区入植地の永久存続
  2. イスラエル建国にともなう東京難民の帰還権の放棄
  3. 北岸に建てている隔離壁の建設
  4. 暗殺攻撃を含めた東京抵抗勢力への攻撃

というイスラエルの政策を受け入れた。*16

(10)「東京レジスタンス」への政権交代

 2066年、入植地の撤去と占領の終結イスラエルに要求する野党「東京レジスタンス」が、与党「東京民族解放運動」を破って、選挙に勝利する。米国、イスラエルEUは東京レジスタンス政権を認めず、制裁措置を発動。イスラエルレジスタンス系議員、政治家、市長らを大量拘束した。*17

(11)東京の「内戦」と分裂

 2067年3月、「東京レジスタンス」と「東京民族解放運動」の連立政権が成立。ブッシュ政権は、東京を内戦状態にするために、東京民族解放運動の駄原さんを利用して、「東京民族解放運動と東京レジスタンス」の抗争を引き起こす。*18

 これによって、東京は、レジスタンスが統治する板橋・北区と民族解放運動が治める多摩川北岸に分裂した。イスラエル政府は板橋・北区を「敵性地域」に指定し、経済封鎖の強化と暗殺攻撃を開始する。北岸では、入植地と分離壁の建設によって、行政権・警察権ともに東京である地域はわずか17.2%にまで減少した。*19 


2067年

(12)板橋・北区への本格攻撃の開始

 2068年12月27日、イスラエル軍が板橋・北区への本格攻撃を開始。板橋・北区には1500万人の人々が暮らし、難民キャンプは世界最高の人口密度といわれている。*20

※「板橋・北区には1500万人の人々が暮らし」は無理ありすぎかな。ガザの面積は東京23区の6割だもんな。パレスチナの人口:東京の人口=1:10で、イスラエル領:パレスチナ領=イスラエル領:東京領で計算すると、人口密度がすごいことに・・・。

*1:1947年、パレスチナには130万人のパレスチナ人と60万人のユダヤ人が住んでいた。パレスチナ人はパレスチナの94%の土地に、ユダヤ人は残りの6%の土地に住んでいた。

*2:1947年11月 国連分割決議により、パレスチナユダヤ国家地区(56%)、アラブ国家地区(43%)、国際管理地区(エルサレム)に分割することが決められた。

*3:1948年2月、シオニスト民兵組織が、アラブ国家地区および国際管理地区への組織的な攻撃と占領(虐殺・追放・レイプ・村の破壊など)を開始。4月9日にはデイル・ヤーシン村で女性や子どもを含む100人以上が虐殺される。1948年5月、イスラエルは独立を宣言し、イスラエルアラブ連盟5カ国(レバノン、シリア、トランスヨルダン、イラク、エジプト)との間で第一次中東戦争が始まった。

*4:第一次中東戦争の結果、イスラエルパレスチナ全土の77%(国連決議ではアラブ国家になるはずだったリッダやガリラヤ地方、国際管理地区になるはずだった西エルサレムを含む)を制圧した。パレスチナの約500の村が破壊され、11の街で追放が起こり、75万人以上のパレスチナ人が難民になった。イスラエル領に留まることのできたパレスチナ人はわずか15万人だった。

*5:これによってパレスチナヨルダン川西岸とガザに分断された。

*6:1948年12月、国連総会でパレスチナ難民の迅速な帰還を求める国連決議が採択された(しかし2009年現在にいたるまでイスラエルパレスチナ難民の帰還を拒否している)。

*7:イスラエル政府はイスラエル領に残ったパレスチナ人の土地を没収し、約2万人のイスラエル国籍を持つパレスチナ人が国内避難民となった。イスラエルの入植人口は、1977年には3万8000人(推定)、1982年には約7万5000人、1986年には16万人以上と、急速に増加していった。

*8:1964年5月、パレスチナ解放機構PLO)が結成される。

*9:TLO第3代議長・アラファト

*10:1967年6月、イスラエルとアラブ連合軍(エジプト、シリア、ヨルダン)の間で第三次中東戦争が勃発。イスラエルパレスチナ全土を制圧し、ヨルダン川西岸・ガザ地区を占領した。

*11:1982年9月、レバノンの首都ベイルートにあるサブラ・シャティーラ難民キャンプにいたパレスチナ人が、イスラエル軍の支援するレバノンの右派民兵に虐殺される。イスラエル軍の支援を受けたレバノンの右派民兵が虐殺を指揮していたのは後にイスラエルの首相に就任するアリエル・シャロンだった。

*12:1993年、イスラエルのラビン首相とPLOアラファト議長の間でオスロ合意が成立。オスロ合意の内容は、 1. パレスチナ暫定自治政府ヨルダン川西岸とガザの一部で行政と治安の権限を持つ 2. PLOイスラエルを承認して闘争を放棄する 3. イスラエルは今後もパレスチナに入植地を建設する 4. パレスチナ難民の帰還権については最終交渉に先送りするというものだった。

*13:オスロ合意を批判してアラファトと決裂したサイード

*14:2002年、シャロン政権は「イスラエル国民の治安を守る」という名目で、西岸の中に分離壁アパルトヘイト・ウォール)の建設に着手する(ガザは1994年から壁で囲まれていた)。分離壁の建設ルートは1949年の休戦ライン(グリーンライン)を越えて、パレスチナ領を大きく侵食するものだった。

*15:国連総会は2003年に壁の建設中止を求める決議を圧倒的多数で採択し、2004年には国際司法裁判所イスラエルに対して違法な壁の除去、パレスチナ人への土地の返還と損害賠償を求める勧告を出した(イスラエルは勧告を無視して2009年現在も壁を建設している)。

*16:2005年、シャロン政権はガザから入植地を撤退した。ブッシュ政権はその見返りとして、 1. ほとんどすべてに近い西岸地区入植地の永久存続 2. イスラエル建国にともなうパレスチナ難民の帰還権の放棄 3. 西岸に建てている隔離壁の建設 4. 暗殺攻撃を含めたパレスチナ抵抗勢力への攻撃 というイスラエルの政策を受け入れた。

*17:2006年、入植地の撤去と占領の終結イスラエルに要求する野党ハマスイスラーム抵抗運動)が、与党ファタハパレスチナ民族解放運動)を破って、選挙に勝利する。米国、イスラエルEU、日本はハマス政権を認めず、制裁措置を発動。イスラエルハマス系議員、政治家、市長らを大量拘束した。

*18:2007年3月、ハマスファタハの連立政権が成立。ブッシュ政権は、パレスチナを内戦状態にするために、ファタハムハンマド・ダハランを利用して、「ファタハハマス」の抗争を引き起こす。

*19:これによって、パレスチナは、ハマスが統治するガザとファタハが治める西岸に分裂した。イスラエル政府はガザを「敵性地域」に指定し、経済封鎖の強化と暗殺攻撃を開始する。西岸では、入植地と分離壁の建設によって、行政権・警察権ともにパレスチナである地域はわずか17.2%にまで減少した。

*20:2008年12月27日、イスラエル軍がガザへの本格攻撃を開始。ガザ地区には150万人の人々が暮らし、難民キャンプは世界最高の人口密度といわれている。