日本人原理主義下等(3)

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(3)日本人原理主義におけるレイシズムと「好意」の共存

 さて、前述したように、鈴木は日本社会全般に浸透している排外主義やレイシズムを不問に付し、代わりに彼女が「ホスト社会」と呼ぶところの「ホスト」(=主人)たる日本人の「好意」を強調しようとする。

 例えば、鈴木は、第二章「非正規滞在者を取り巻く社会的環境」で、「外国人に関する意識調査」の結果をもとに、1980年代後半から1990年代初頭までは、日本で働く非正規滞在者に対する「ホスト住民」の「まなざし」が総じて「好意的」であったことを主張している。少し長くなってしまうが、以下に引用してみよう(強調は引用者による。以下同様)。ちなみに、本節のタイトルは「人手不足のなかでの好意的なまなざし」である。

外国人に関する意識調査は、1980年7月、1988年2月、1990年11月、2000年11月、2004年5月に実施されている。

 まず、「観光客として入国した外国の人がホステス、土木作業員、工員などとして働き収入を得ている」場合など「不法」就労に対してどう思うかという設問に対する答えをみると、1980年調査では「よくないことだ」という意見が「よくないがやむをえない」を上回っていたのに対して、1988年調査ではその割合が逆転し、「よくないがやむをえない」と回答する者の割合が増えている。1990年調査は、「不法」就労に厳格に対応するための89年改定入管法が施行された後に実施された調査であるにもかかわらず、過半数の55.0%が不法就労を容認する(「よくないがやむをえない」)姿勢を示している(図2-1-3)。*1


●図2-1-3 「不法」就労に関する考え方 <1980年調査・1988年調査・1990年調査>

 やむをえないと回答した者の理由をみると、1988年調査では、「その人が稼いだ金で家族が暮らしていけるから」が62.7%で最も多く、次いで、「その人が納得して働いているのだから」(40.1%)、「高収入を求めて日本に来るのは当然だから」(35.7%)となっており、「不法」就労者本人に対する一種の共感的意識がうかがえる。一方、1990年調査をみると、第1位は1988年の調査と同じ「その人が稼いだお金で家族が暮らしていけるから」(50.8%)であるが、1988年調査では14.1%であった「日本企業の人手不足を解消してくれるから」が47.9%で、第2位の理由として挙げられている(図2-1-4)。*2


●図2-1-4 「不法」就労をやむをえないと思う理由(2L.A.) <1988年調査・1990年調査>

 突込みどころはいろいろあるのだが、とりあえず鈴木は自身の辞書にある「好意」の項目を改定するべきだと思う。日本人マジョリティが内面化しているレイシズムを棚に上げて、外国人に対する「好意」云々を評価するのが欺瞞であることは言うまでもないが、鈴木の見方によれば、日本―途上国間の人身売買(強制労働や性的搾取、臓器移植など)を容認する日本人にさえ、「本人に対する一種の共感的意識」(「その人が稼いだ金で家族が暮らしていけるから」/「その人が納得して働いているのだから」/「高収入を求めて日本に来るのは当然だから」)が見られる、などということになってしまう。

 もちろん、「共感的意識」とやらが「好意的なまなざし」と同様、日本人の内面問題でしかないと考えるなら、例えば途上国の女性を金で「買う」日本人男性にも、そうした類のものはあるだろう。旧日本軍兵士が「慰安婦」に心を寄せた程度には、構造的・物理的暴力の加害者は、自己欺瞞から目を逸らすために自らの「同情心」を有効活用するだろう、という意味で。いずれにせよ、非正規滞在者を無権利状態のまま放置しておくことが「好意」であるというような、鈴木の定義はどうかしているのではないか。

 ところで、後者の「「不法」就労をやむをえないと思う理由」に関する調査は、今から20年近く前のものである。けれども、この調査結果を見ていると、植民地主義プロジェクト以外の何物でもないような「平和の回廊」構想を日本政府が提唱しているのも、日本社会のこうした「空気」の反映なのではないかとさえ思えてくる。「たとえイスラエルに迎合する部分があろうと、パレスチナ占領地の地元住民の雇用を生み出し、カネを落とすのであれば、それでいい(批判すべきではない)」などという「現実主義」的言説が横行する素地を作ってきたのは、まさに戦後の日本社会なのだから。

 「繰り返すが、回廊構想はそもそもが、占領者イスラエルによるパレスチナ支配を前提とし、占領者の教示と協力によって進められており、日本がそれに荷担してしまっている、ということが問題なのであり、利益をもたらすか否かという結果が問われているのではない。

 パレスチナ情報センター:「回廊構想の「植民地主義」的性格――問題の所在の再確認のために」
 http://palestine-heiwa.org/note2/200805121219.htm

 「戦後に東南アジア地域をはじめとして、JICA・日本工営が「開発援助」の名のもとに押し進めた支援事業は、「新植民地主義」あるいは「再植民地主義」とでも言うべきもの」であり、生きていくために日本で働かざるをえない非正規滞在者の「利益」(「その人が稼いだ金で家族が暮らしていけるから」/「高収入を求めて日本に来るのは当然だから」)を取り沙汰することで、こうした構造の不正義を相殺することはできない。圧倒的に非対称な権力関係のもとでは、ギブアンドテイクなど成立するはずがないのだし、まして、鈴木自身も間接的に述べているように、日本人マジョリティが気にかけているのは、非正規滞在者が日本で働くことによって得るわずかな「利益」などではなく、日本社会が非正規滞在者を搾取することによって得る膨大な利益――「国益」――なのだから。

 また、「不法」就労者への対応については、1988年調査、1990年調査とも、「すべて送還する」という人が4割以下で、「悪質な場合だけ重点的に取り締まる」という意見の方が多くなっている。

 以上の世論調査は、当時のホスト住民が、いわゆる「単純労働者」の受入れは行わず、「不法」滞在者や「不法」就労者に対して厳格に対応するとした政府の方針を、必ずしも支持していないことを示している。深刻な人手不足に直面していた当時の日本において、彼/彼女らは、入管法に違反している存在ではあるが、経済的理由から日本に働きに来ている外国人であり、日本企業の人手不足を解消してくれる貴重な労働力であるとみなされ、悪質な場合以外は、厳格に取り締まらなくてもいいのではないか、というのが多くのホスト住民の受けとめのようである。*3

 ・・・日本で働く非正規滞在者を「すべて送還する」べきだと答える日本人が4割近くもいる状況で、「ホスト住民」の「好意的なまなざし」を語る鈴木の「ポジティブ」思考には心底寒気を覚えるのだが。しかも、バブル期には非正規滞在者に対する一斉強制送還論を支持しなかった「多くのホスト住民」も、非正規滞在者を「労働力」としてしか見ていないのだから、景気が悪くなれば強制送還論者に様変わりすることは、容易に予測がつくではないか。

 実際、鈴木は次節以降で、「人手不足を背景とした非正規滞在者に対する好意的な報道は、バブル崩壊による景気後退とともに、変化をみせはじめた」*4、「「体感治安」の悪化が指摘されていたなかで、かつては「人手不足を支える貴重な労働者」として捉えられていた非正規滞在者に対する評価は、景気後退と外国人犯罪報道のなかで180度転換してしまった*5として、景気後退とメディアの報道によって、日本社会における非正規滞在者像が「労働者から犯罪者へ」*6と一転したと論じている。

 けれども、こうした解釈は実にバカげている。鈴木は「ホスト住民」の「好意的なまなざし」を育んだのも、それを摘んだのも、景気とメディアによる報道だと述べているが、「ホスト住民」の「好意的なまなざし」とやらが、実際には日本人の内面問題でしかない以上、外国人をレイシズムと「国益」論的価値観からしか見ないような日本人マジョリティの精神構造は、バブルが沸こうが弾けようが、メディアの報道が非正規滞在者に対して「好意」的であろうが「敵対」的であろうが、まったく変わっていないのである。非正規滞在者に対する評価が、「好意」的なものから「敵対」的なものへと、「景気後退と外国人犯罪報道のなかで180度転換してしまった」などと言う鈴木の認識は、参照軸が完全にずれているのではないか(だからといって、レイシズムと「国益」論的価値観を煽ってきたマスコミ関係者を免罪するつもりはさらさらないが)。このことは、他ならぬ鈴木自身の調査によっても示唆されている。

 以下は、本書の「表2-2-7 外国人の犯罪件数と報道件数の推移(1989年〜2000年)」*7をグラフ化したものである。表は警視庁『警察白書』(各年版)及び日経テレコンデータベースをもとに鈴木が作成したもので、「『外国人犯罪』報道件数」は、「日経テレコンデータベースを利用して検索した「外国人犯罪」という単語を含む各年の記事件数」(検索対象:日経、朝日、毎日、読売、産経の全国紙を含む51の新聞)で、「報道率」は「「『外国人犯罪』報道件数」をその年の「来日外国人一般刑法犯検挙人員」で除した割合」*8である。

●「外国人の犯罪件数と報道件数の推移(1989年〜2000年)」

 本書で鈴木が論じているように、バブル崩壊の景気後退以降に増加しているのは、外国人による犯罪件数ではなく、それらの報道件数である。

 2004年7月に実施された「治安に関する世論調査」結果をみると、85%以上の日本人がこの10年で治安が悪くなった(「悪くなったと思う」と「どちらかといえば悪くなったと思う」)と答えており、その理由は、「外国人の不法滞在者が増えたから」が54.4%で第1位となっている。加えて、日本全体の凶悪犯検挙人員に占める非正規滞在者の割合は、2〜3%に過ぎないにもかかわらず、「外国人の不法滞在者が増えたから」という選択肢が用意されているのは、「誘導するものと批判されても致し方ない」(久保2006:158)のではないだろうか。結果として、政府の「誘導」に応えるごとく、半数以上が、治安が悪くなったのは「外国人の不法滞在者が増えたから」と回答している。

 同じ調査のなかで、8割強の日本人が日本の治安に関心がある(「関心がある」と「ある程度歓心(原文ママ)がある」)と応えているが、関心をもったきっかけとして、83.9%が「テレビや新聞でよく取り上げられるから」と回答しており、「家族や友人との会話などで話題になったから」(30.0%)、「身近で犯罪が発生した(発生しそうになった)から」(23.0%)などその他の理由はいずれも3割以下となっている。*9

 鈴木は、こうした統計を挙げて、外国人を犯罪者と見なす日本社会の風潮は、「外国人犯罪の急増」を報道するメディアの印象操作によって作られてきたと主張する。けれども、本当にそれだけなのだろうか?上の調査結果を見る限り、いわゆる「体感治安」の悪化が「外国人犯罪の急増」とともにメディアで煽られていることについては、多くの日本人が多かれ少なかれ自覚していると思われる。したがって、日本人マジョリティが単にメディアの印象操作を受けているだけなのであれば、メディアの報道を否定する論理的なデータをただ提示しさえすればよいということになる。

 アムネスティ・インターナショナル日本:「外国人犯罪増加・凶悪化」のウソ
 http://www.amnesty.or.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=2289

 ところが、実際はどうだろう?こうしたデータが広まりさえすれば、外国人を犯罪者扱いするような日本の世論は変わるのだろうか?残念ながら、私はそうは思わない。なぜなら、日本人マジョリティは、外部であるところの政府やメディアの印象操作によって、外国人に対する偏見を一方的に植えつけられているわけではなく、むしろ内なるレイシズムを正当化するために、外国人に対する偏見を共有する政府やメディアを信じてみせているだけではないのか、と思うからである。

 もちろん、政府やメディアを信じるまでもなく、自らのレイシズムをスルーできる日本人もいる。その好例が鈴木である。彼女は、1990年に新規入国者数が急増したイラン人労働者について、次のように述べている。

「肌の色の異なる労働者がゾロゾロ歩いている」だけでも、違和感を抱き、近づきがたいと思うホスト住民の眼には、毎週日曜日に、数千人にものぼる、肌の色の異なる見知らぬ外国人が集まる光景は――しかもほとんど男性ばかり――どれほど異様に映ったことであろう。

 代々木公園と同様にイラン人が多数集まっていた上野公園周辺の日本人住人に対して、1992年6月に実施されたアンケート調査でも、上野のイラン人の印象について、「敵対的」、「怖い」、「理解できない」と回答する者が、「友好的」、「安心できる」、「理解できる」を上回っている。また、約4分の1の回答者が、イラン人の生活や行動をみて不安や恐怖を感じた経験があると答えている。さらに、7割近くの周辺住民が「不法滞在・不法就労を現行法規に基づいて厳格に取り締まってほしい」と回答している(東京大学医学部保健社会学教室1994:250-253)。*10

 何のことはない。「ホスト住民」の「まなざし」を観察する当の鈴木やアンケート調査自体が、「善良」な日本人マジョリティの自覚なきレイシズムを反芻しているのである。日本で暮らす定住外国人の中で、こうした「善良」な日本人の「生活や行動をみて不安や恐怖を感じた経験」がない人は、それこそ皆無だろう。しかも、日本人が在日外国人に対して抱く不安や恐怖は、後ろめたさの抑圧(投影)として生じる、多分に倒錯した感情であるのに対して、在日外国人が日本人に対して抱く不安や恐怖は、極めて合理的かつ自然な反応なのである。

 外国人を犯罪者と見なす日本社会の風潮は、政府やメディアによる、外国人に対する人種差別撤廃条約無視の印象操作も含めて、日本国家/日本人が戦後も再生産してきた外国人に対する制度的・社会的差別の現れとして理解するべきだと思う。鈴木にとっては、「外国人、とりわけ非正規滞在者こそが「犯罪の温床」であり、「治安への脅威」であるという認識が政策的に形成されていった」*11のは、2001年9月11日以降のことかもしれないが、戦後日本の入管行政は、朝鮮人を犯罪者として徹底的に弾圧・排除することで幕を開けたのである。外国人を犯罪者扱いするレイシズムは、日本の入管行政の例外ではなく本質である。 

 「なお、これに先立って一九四六年頃から、南朝鮮の政治・経済不安のため、一旦帰国した人々が日本へ逆流してこざるをえない現象が生じていた。特に四八年の単選反対闘争、済州島四・三蜂起への弾圧強化は、緊急避難的な逆流を増大させ、その傾向は朝鮮戦争期まで続いた。当時、日本政府は政治亡命ないし難民認定など一切しなかったので、彼らは「不法入国」のレッテルを貼られるほかなく、在日朝鮮人運動は彼らをかばわねばならない役割を担うことともなった。日本政府は毎年何千人という規模で彼らを韓国へ送還したばかりでなく、特に朝鮮戦争期には、反戦闘争への威嚇のためか、もともと在日の人々をも種々の理由で大村収容所に収容し、反共体制下の韓国に送還せんとする姿勢を示した。こうした状況を背景に、五二年四月、指紋押捺制度をふくむ外国人登録が公布されたのである。」*12

 「ところが、その一方で解放後(日本敗戦後)いったん朝鮮半島に帰還した朝鮮人、つまり私のおじのような存在は、再び日本に入国することを拒まれました。一九四七年に日本政府が外国人登録令を発布し、朝鮮人、台湾人を「当分の間、外国人とみなす」と決めたからです。注意してほしいのですが、その時点でまだ朝鮮半島には南北ともに国家は成立していません。かつて韓国「併合」とともに日本臣民の列に引きずり込まれた朝鮮人は、この時、何の相談もないまま日本国家から放り出されたのです。外国人登録を強いられた際、彼らの多くは国籍欄に「朝鮮」と記入しました。その「朝鮮」は特定の国家を指す言葉ではなく、自らの民族的出自を表明する言葉だったのです。そう書く以外に、どうすることができたでしょう。まだ自らが国民として帰属する国家は地球上に存在していなかったのです。このようにして、在日朝鮮人は難民になりました。在日朝鮮人という難民を生み出した主要な責任は日本国にあります。日本人のどれだけが、そのことを自覚しているでしょうか。*13

 鈴木が本書でこうした事実について触れている箇所はない。鈴木は、こうしたカウンター・ナラティブが日本人原理主義者のマスター・ナラティブにとってタブーであることをよくわきまえているのだと思われる。同じ理由から、鈴木は当の入管にさえ「ホスト社会」の「好意的なまなざし」を見出しているが、その「好意」が日本人原理主義者の内面問題(ほとんど妄想)にすぎないことは自明である。

 朝鮮半島から密航した者の密航目的をみると、正規入国が制限されていた時代は、引揚げ者の再来日や日本国内に居住する家族や親族との同居、勉学を目的とする者が多かったが、1965年以降、日本に就労の場を求めて密航するいわゆる出稼ぎ目的での来日が多くなり、これがその後の密航者の主流を占めるようになった(法務省入国管理局1981:140; 坂中1989:129-130)。戦後の時代の流れのなかで、韓国から日本への密航は、両国の歴史的関係を背景とした「同居」型から、「就労」型へ転換し、次項以降でみる「不法」就労を目的とした入国の1つの経路となっていった。

 しかしながら、入国管理局による以下の記述を読む限り、密航者として潜在して就労している彼/彼女らは、発覚と摘発におびえながら劣悪な労働環境に耐えて働く労働者であり、「不法」入国の罪を負っているとはいえ、同情すべき労働者として捉えられている。*14

 「子どもだったおじは「難民」となり「不法入国者」となって日本の兄のもとに流れ着きました。小さな密航船の船底、窒息しそうに蒸し暑い場所で機械油のドラム缶に首まで漬かって三日三晩を過ごしたそうです。まさに「太陽の男たち」の東アジア版です。私たち一家は何年もの間、こうして転がり込んできたおじを官憲からかくまっていました。おじは強制退去を恐れて、学校にもろくに通えないまま成人しました。偽名のままで結婚し、子どもを三人もうけてから自首して特別在留という不安定な在留資格を得ましたが、数年前、ちぐはぐの連続に終始した人生を自らの手で閉じました。」*15

(次回に続く)

*1:鈴木江理子、『日本で働く非正規滞在者―彼らは「好ましくない外国人労働者」なのか?』、明石書店、2009年、pp.181-182

*2:同上、p.182-183

*3:同上、p.183

*4:同上、p.201

*5:同上、p.216

*6:同上、p.200

*7:同上、p.204

*8:同上、p.204

*9:同上、pp.217-218

*10:同上、p.202

*11:同上、p.4

*12:梶村秀樹、『梶村秀樹著作集 第六巻 在日朝鮮人論』、明石書店、1993年、pp.305-306

*13:徐京植、『秤にかけてはならない―日朝問題を考える座標軸』、影書房、2003年、p.119

*14:鈴木江理子、『日本で働く非正規滞在者―彼らは「好ましくない外国人労働者」なのか?』、明石書店、2009年、pp.77-78

*15:徐京植、『秤にかけてはならない―日朝問題を考える座標軸』、影書房、2003年、pp.119-120

日本人原理主義下等(2)

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(2)マスター・ナラティブへの欲望――保守とリベラルによる支配の相互補完――

 鈴木がどこまで自覚的なのかはわからないが、本書からは、「外国人問題」に関わるNPO/NGOを含む「リベラル」の一部が共有していると思われる、マスター・ナラティブ*1への強烈な志向を読み取ることができる。それを顕著に示すのが、鈴木が「外国人政策における非正規滞在者」として、非正規滞在者に焦点を当てて戦後の日本の入管行政を論じている第一章である。

 実のところ、この章を読んですぐには、私は鈴木のスタンスを理解することができなかった。「労働者としての非正規滞在者を正当に評価すること」なく、非正規滞在者を「好ましくない外国人労働者」と決めつけるのはいかがなものか、という主張(に関わる部分)を別にすれば、鈴木が、日本の入管行政の歴史として語っているのは、大まかに言って、入管資料や「坂中論文」*2およびその周辺文献からの単なる引用か、NPO/NGO関係者らによる、1980年代後半以降に限定された、非正規滞在者への支援の取り組みのどちらかでしかなく、しかも前者が圧倒的大部分を占めているのだから。

 これではまるで、DV加害者の手記をそのまま「客観的事実」として引用しながら、DV被害者への支援活動を宣伝しているようなものではないか。当初、私はそのように感じ、鈴木の不気味な分裂(と私が思ったもの)に戸惑った。

 けれども、本書を読み進めるうちに、おそらく鈴木は、外国人の人権を保障しようとする運動を、日本人原理主義というマスター・ナラティブに抗するカウンター・ナラティブ*3として対置するのではなく、マスター・ナラティブの不可欠な一部として位置づけているのではないか、ということに気がついた。つまり、鈴木にとっては、NPO/NGO関係者ら「リベラル」は、外国人に日本人と同等の権利を保障することを目指して、日本国家の入管行政に対抗するべき存在なのではなく、外国人に「恩恵を与える」ことで入管行政をより「寛容」な方向へと導いていく、日本国家の入管行政を司る主体の不可欠な一部として認識されているのではないか、ということである。

 そうであれば、日本国籍を取得しようとしない在日朝鮮人に対する制度的・社会的差別の一切を合理化し、在日朝鮮人の生を「朝鮮系日本人」としての生に切り詰めようとする「坂中論文」を、自著で無批判に引用する一方で、「すべての外国人学校に大学入学資格と財政措置を求める共同声明」に賛同するような鈴木のスタンスは、分裂しているどころか極めて首尾一貫していると言える。よりあからさまな言い方をすれば、日本人原理主義に骨まで漬かった保守とリベラルが、外国人に対する「寛容」の度合いをめぐってせめぎ合う、その敵対的友好関係の変遷こそが、鈴木から見た日本の入管行政の歴史なのである*4両者は2つで1セットなのであり、それを個人レベルで体現しているのが、鈴木のような人間なのだ。

 そして、日本の入管行政を司る主体であるところの保守とリベラルは、決して自らが依拠する日本人原理主義を相対化するようなカウンター・ナラティブを受け入れようとはしない。例えば、鈴木は「合法的な滞在資格をもたないことが、必ずしも当該外国人の責ではない場合もある」*5として、次のように述べている。

例えば、改定前の日本の国籍法では、日本人男性と非正規滞在女性との非嫡出子の場合、胎内認知をえなければ、日本人の子どもであるにもかかわらず日本国籍を取得できず、その結果、非正規滞在者となることがあった。*6

 ところが、話がこの「合法的な滞在資格」という概念そのものの恣意性を問う局面になると、鈴木は途端に寡黙になる。彼女は、本書で7ページを割いて、「戦後の入管行政のなかで重要な問題とされた朝鮮半島からの「密航者(「不法」入国者)」」について概説しているが、そこでは、日本が敗戦後いち早く(1945年12月)在日朝鮮人や台湾人などの旧植民地出身者の選挙権を否定したこと*7や、日本国憲法が施行される前日の1947年5月2日に、天皇が最後の勅令によって「外国人登録令」を制定し、朝鮮人を一方的に外国人と見なし、外国人登録を拒絶した朝鮮人を強制退去したこと、日本政府が、一世代以上もの長きにわたる植民地支配によって荒廃した朝鮮半島から日本に戻ってきた朝鮮人を、「共産主義者」や「犯罪者予備軍」と見なし、連合国・GHQに働きかけて強制送還してきたこと、そしてその一方で、サンフランシスコ単独講和条約の発効(1952年4月)までは朝鮮人日本国籍保持者であるとして、それを民族教育弾圧の口実にしてきたこと・・・などなどは、どこにも語られていない。

 日本国家の国民概念の正統性を脅かすカウンター・ナラティブの代わりに鈴木が語っているのは、「戦後日本の非正規滞在者は、朝鮮半島からの密航者でその幕を開けたのであった」*8という「分析」であり、その理由として、朝鮮半島からの密航者が多いことについて、入管白書では、日韓両国交流の歴史的経緯、多数の地縁・血縁者が日本国内に居住していること、地理的条件として両国が近距離にあること、日韓両国間の経済的格差などがその理由として挙げられている」*9としているを挙げている。植民地支配を「日韓両国交流」とうそぶく入管の精神構造は醜悪極まりないが、それをそのまま引用している鈴木の神経もすさまじい。これでは、レイプ犯がレイプを被害者との「交友」だと言い張るようなものではないか。

 さらに、鈴木は、「日本国憲法第3章(第10条〜第40条)には、「国民の権利及び義務(Rights and Duties of the People)」が規定されているが、「外国人(日本国籍をもたない者)」の権利に関する言及はない」*10と述べている。大嘘である。ご丁寧にも英語の原文を添えているところが笑えるが、これはまさに原文と日本語訳を読み比べればよくわかる。

 Chapter III Rights and Duties of the People

 第3章 国民の権利及び義務

 Article 10 (Citizenship)
The conditions necessary for being a Japanese national shall be determined by law.

 第10条(国民の要件)
日本国民たる要件は、法律でこれを定める。

 Article 11 (Fundamental Human Rights)
(1) The people shall not be prevented from enjoying any of the fundamental human rights.
(2) These fundamental human rights, guaranteed to the people by this Constitution, shall be conferred upon the people of this and future generations as irrevocable and inviolable rights.

 第11条(基本的人権の享有)
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

 日本語では「(日本)国民」という同一の訳があてがわれているが、原文では「the People」(第3章のタイトルおよび第11条以下)と「a Japanese national」(第10条)という言葉は、明確に使い分けられている。第10条の「a Japanese national」は「日本国籍保持者」を意味するが、第11条以下の「the People」は「日本に住んでいる人々」を指す。つまり、原文を忠実に解釈する限り、日本において在日外国人の基本的人権を否定する根拠はないのである。

 というように、本書は、日本の入管行政における保守とリベラルによる支配の相互補完がどのようなものであるかということを、端的に示してくれている。鈴木は一部で「外国人問題」や「多文化共生」のエキスパートと呼ばれているらしいが、本書には、おそらく坂中英徳でさえ憤慨するだろう、日系南米人へのレイシズム*11が明け透けに綴られている。

 一方で、労働力の「Just-in-Time-System」として、企業にとって大きなメリットをもたらす日系南米人は、彼/彼女らが居住する地域社会に「外部不経済」というデメリットをもたらすこともある(丹野2001:240-241)。ゴミ捨てや騒音、路上駐車などをめぐる地域住民とのトラブル、子どもの不就学や教育における「失敗」、社会保険への未加入や税金の未払いなどは、日系南米人が集住する地域社会が直面している「問題」として、昨今、盛んに論じられている。そして、下請け企業や取引き企業で日系南米人を雇用している企業に対して、たとえ間接雇用であっても、「企業の社会的責任(Corporate Social Responsibility : CSR)」の観点から、責任ある対応が求められている。つまり、自社の商品の生産過程に日系南米人を活用している企業は、外部不経済を解消するためのコスト分担を引き受ける必要があるというのである。*12

 「外部不経済」「失敗」「問題」といった単語が括弧でくくられていることを差し引いても、度肝を抜かれるような発言である。とても、アジアの民衆に対する戦後補償を60年以上も放置し、途上国の人々を国内外で執拗に搾取し、ソマリア沖合に有害廃棄物を不法投棄している「平和国家」/「先進国」の国民の台詞とも思え・・・るか。

 いずれにしても、こうした鈴木ら「リベラル」によって表象される日系人像が、「外国人労働者を挟み撃ちする厚労省と法務省」の思惑を後押しすることは間違いない。イスラエル労働党に代表されるシオニスト左派こそが、リベラルの装いをしながら、ユダヤ人国家の主流をなし、パレスチナ人の追放・差別を主導してきたように、日本においてもリベラルな日本人原理主義者こそが、日本国家のマスター・ナラティブを綴り、レイシズムをいっそう社会に定着させていく上で、主要な役割を担うことになるのではないか。

(次回に続く)

*1:支配者によって綴られる物語

*2:坂中英徳、『今後の出入国管理行政のあり方について―坂中論文の複製と主要論文』、日本加除出版、1989年

*3:マスター・ナラティブの中で踏みにじられてきた人々が語る物語

*4:もっとも、坂中は「リベラル」の部類に入るのだろうが。

*5:鈴木江理子、『日本で働く非正規滞在者―彼らは「好ましくない外国人労働者」なのか?』、明石書店、2009年、p.22

*6:前掲書、p.22

*7:それまでは六ヶ月以上一定の場所に居住する男性高額納税者に限って選挙権があった。

*8:同上、p.74

*9:同上、p.153

*10:同上、p.98

*11:おかしな表現だが、日本人原理主義者である鈴木にとって、どうやら日系人は「同胞」と見なされていないようなのである。

*12:同書、p.470

日本人原理主義下等(1)

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 しばらくネットをチェックしていなかったので、すっかり出遅れてしまったが、はてな界隈で、「反日上等」というプラカードをめぐって、ほとんどバッシングのような議論が起こっていた。といっても、私がこの件を知ったときには、すでに議論の当事者のエントリーがブログごと削除されていたりして、今から議論の流れを追うのも大変そうなので、角度を変えて、鈴木江理子著『日本で働く非正規滞在者』の紹介をしたいと思う。まあ、紹介と言ってもほとんどは批判なのだが、結果として「反日上等」バッシングに対する意見表明にもなるだろう。

 本書は、国内の外国人を「支援」するNPO/NGO関係者の中に、「国益」論的価値観を内面化し、外国人に対してパターナリスティックに振る舞う日本人が少なくない、という個人的な実感を裏づける内容で、こうした人々の「善意」にもとづく外国人「支援」の不吉な行く末をも暗示しているように思う。

 なお、公正を期すために最初に書いておくと、鈴木は非常に「リベラル」で、ネットで散見するだけでも、広範かつ意欲的に「外国人問題」*1に取り組んでいることがわかる。まさにイスラエル「シオニスト左派」を彷彿とさせる立場であり、それだけに日本の外国人「支援」運動の中で、鈴木の主張は説得力を持ちうるのではないだろうか。

 というわけで、今日から数回に分けて、本書の中身を批判的に検討していく。蛇足ながら、タイトルは「反日上等」からの連想である。

(1)「好ましい/好ましくない」外国人論としての日本人原理主義

 『日本で働く非正規滞在者』の著者・鈴木江理子は、「外国人問題」に取り組むNPO/NGOの理事や顧問を兼任し、「日本の外国人政策や外国人労働者、国際人口移動、地域社会の多文化化などについて研究するかたわら、外国人支援の現場でも活動」*2している。

 鈴木が本書を執筆した目的は、第一に、「長期にわたり日本で就労する男性非正規滞在者に注目し、これまで十分な研究が行われてこなかった彼らの就労実態を通時的に把握することで、労働者としての非正規滞在者を正当に評価すること」であり、第二に、「国家をはじめとする公的機関による公式な政策と実質的な対応、労働市場における雇用主の選択、メディア報道やホスト住民の意識や態度、NPO/NGOの活動など、非正規滞在者がこれまでおかれてきた日本の社会構造を解明」*3することであるという。鈴木はその狙いを次のように語っている。

強力な取締りによって日本社会から非正規滞在者が排除されている今このときに(注:労働者としての非正規滞在者に対する「正当な評価」を)明らかにしなければ、日本の産業の一端を担った非正規滞在者は、あたかも存在しなかったかのように忘れ去られてしまうであろう・・・本書が、今なお存在している十数万人の非正規滞在者に対する政策的対応やホスト住民の意識、日本で生活し、働いている外国人に対する理解、今後の外国人政策などを問い直す契機となることを切に願っている。*4

 ところで、「強力な取締りによって日本社会から非正規滞在者が排除されている今このとき」という表現は、戦後日本の入管行政において、それが該当しない時期を探す方がはるかに無理難題だと思うのだが、鈴木いわく、これは2001年の「同時多発テロ」以降の現象――2007年の日本版US-VISITの導入や、先日成立した入管法・入管特例法・住基法の改悪など――を指し、それ以前――1990年代――の「取締り強化をタテマエとした緩やかな排除」(強調は引用者による)*5とは一線を画すらしいのである。

 失笑することに、法務省入国管理局の統計をもとに、鈴木自身が作成した表*6を見ると、1994年以降に強制送還された非正規滞在者の人数/割合(年)は、37397人/13%(1994年)、54880人/19%(1995年)、52550人/19%(1996年)、48069人/17%(1997年)、45699人/17%(1998年)、50381人/20%(1999年)、45145人/19%(2000年)、35380人/16%(2001年)、33788/15%(2002年)、35911人/16%(2003年)、41926人/20%(2004年)、33192人/17%(2005年)、33018/19%(2006年)、27913人/19%(2007年)となっている。

非正規滞在者数と非正規滞在者数における被強制送還数の割合の推移

 参考までに、勝手にグラフを作成してみた。このグラフから、日本が非正規滞在者を「緩やか」に排除している時期を想定するのは、相当難しい、というか不可能に近いのではないだろうか。少なくとも、私にはさっぱりわからないのだが。

 本書はもともと博士論文として執筆されたものだということだが*7、小学生に突っ込みを入れられてもおかしくないような、こんな明白な矛盾を誰も指摘しなかったのだろうか。まあ、それ以前に、日本人が自国の入管政策を論じる際に、「緩やかな排除」などという専門用語(?)を持ち出す時点で終わっているのだが。ちなみに、本書には事実関係の誤認および論理的な破綻が少なくなく、その多くは著者の偏見に由来すると思われるが、それは個別に後述する。

 おそらく最も重要なのは、本書の副題が「彼らは「好ましくない外国人労働者」なのか?」という点である。というか、この時点でネタバレするように、本書は、外国人を「好ましい外国人」と「好ましくない外国人」に線引きする日本国家/日本人の権力を手放さずに済む範囲での「良心的」*8提言なのである。本書の目的である、「労働者としての非正規滞在者を正当に評価すること」についても、「正当な評価」を下す主体が日本国家/日本人であることの正当性をまったく疑っていない鈴木が、日本人原理主義者であることには、ほとんど異論の余地はない。鈴木は、坂中英徳的「リベラル」な日本人原理主義の一員なのだ。

 実際、鈴木は序章で次のように述べている。

 国際慣習法上、国家は「領土」への外国人の出入りに関して広範な裁量が認められており、特定の外国人に入国を認めるか否かを自由に決定する裁量を有している。「国境」管理は国家の責務であり、国民の安全と国家の秩序を維持するために、「好ましい外国人」と「好ましくない外国人」の線引きが行われることは当然のことであろう。したがって、国境管理を規定する法の逸脱者である「不法」滞在者の存在を、無条件に肯定することはできない。

 しかしながら、前述したように、合法的な滞在資格をもたないことは、必ずしも当該外国人のみに罪があるわけではないし、法や規則の制定や改定、あるいはその運用によって、非正規滞在者が生み出される場合もある。*9

 国際慣習法や国家/国民概念を所与の前提とする、鈴木のナイーブさ、あるいは確信犯的言明は、とりあえず置いておく。厄介なのは、「「好ましい外国人」と「好ましくない外国人」の線引きが行われることは当然のこと」という鈴木の主張は、レイシズムが蔓延する日本社会においては、ほとんど違和感なく受け入れられるだろう、ということである。

 仮に、これが、「高齢女性は「好ましくない女性」なのか?」/「「好ましい女性」と「好ましくない女性」の線引きが行われることは当然のこと」という主張であれば、それがセクシズムであるという批判を免れることはできないだろう。ところが、選別される対象が外国人になると、それがレイシズムであることを指摘する声は、途端にか細くなってしまう。もちろん、当事者の数が違いすぎることも理由の一つではあるだろうが、最大の原因は、日本人マジョリティが無自覚な日本人原理主義者であることだと思う。

 ところで、本エントリーで用いる日本人原理主義という概念は、国民主義――特に日本のように血統主義や同化主義を貫徹している国家における国民主義――を指す。だから、別に国民主義という用語をそのまま使ってもよいのだが、思うに日本人マジョリティにとっては、国民主義という言葉は何ら負のイメージを喚起しないのではないだろうか。

 例えば、護憲派の多くにとっても、国民主権というものは、外国人の参政権を否定する制度/イデオロギーとしては捉えられておらず、むしろ立憲主義の文脈で肯定的に認識されているように思う。単純化すれば、国家権力を抑制し、個人の人権を保障するためにこそ、国民主権が重要であるという認識である。

 けれども、民主主義国では国家権力はマジョリティによって作り出される(ということになっている)ため、立憲主義の理念は、(マジョリティではなく)マイノリティの権利を守ることにこそ、その本質があると言える。したがって、立憲主義の文脈で国民主権をありがたがるというのは、本来倒錯していると思うのだが、こうした倒錯は、過去の侵略戦争は「軍部の暴走」によるものであり、一般の日本人は戦争の被害者だった、というお決まりの欺瞞と極めて親和的である。どちらも、外国人の存在は眼中にないか、周辺視野でぼやけているのである。

 話を戻す。では、本書の結論は何なのだろうか?鈴木は、日本で働く非正規滞在者は「好ましくない外国人労働者」なのかという、自ら掲げた疑問に答えていない。それも当然のことで、鈴木のような「リベラル」な日本人原理主義者が、この質問に対して、YESであれNOであれ、答えられるわけがないのである。まして、質問自体が唾棄すべきレイシズムであるなどといった自覚があるはずもない。鈴木は、本書を次の言葉で締めくくっている(強調は引用者による)。

 交通手段の発達やグローバルな情報網の展開、拡大化する南北格差のなかで、国境を越えた人の移動は一層盛んになるであろう。その一方で、先進諸国は国境管理を強化し、「好ましくない外国人」に対する排除を強めている。主権国家として、非正規滞在者を減少させるためのより効果的な対策を検討することは、もちろん必要である。だがそれに加えて、彼/彼女らが、労働者としてどのような仕事を担い、いかなる労働条件や労働環境のもとで就労しているのかを理解し、正当に評価することも重要な取組みであると考える。なぜなら、労働者としての非正規滞在者は、受入れ国の社会構造を前提として行動し、それによって、社会構造を再生産したり変形するからである。*10

 「労働者としての非正規滞在者は、受入れ国の社会構造を前提として行動し、それによって、社会構造を再生産したり変形する」とは回りくどい言い方だが、後述するように、おそらく鈴木が言いたいのは、日本社会に必要とされる労働力を提供し、日本に同化しようと努める外国人は、たとえ非正規滞在者であっても(在留特別許可による)受け入れを検討することが「多文化共生」への道である、ということだろうと思う。もっとも、鈴木はこれほど露骨な物言いはしてはいないが。

非正規滞在者を支えるNPO/NGOは、子どもの存在にかかわらず、長期にわたり日本で真面目に働き、日本を支えてきたという社会的実態を根拠として在留特別許可が認められるべきであり、さまざまな権利が剥奪されている状況から、いち早く救済されるべきだという主張を行っている。だが、個々の家族の在留特別許可を支援するなかで、広くホスト社会からの賛同をえるために、「日本で学び続けたい」、「日本で将来の夢を実現したい」という子どもの声が強調されることが多く、そのような運動を伝えるメディアも「子ども」に焦点を当てた報道に偏りがちである。そしてその結果として、「罪のない」子どものいない非正規滞在者は、新たな在留特別許可の「基準」から排除され、「外国人犯罪の温床」というスティグマを背負うことになった。*11

 興味深いのは、516ページにもわたる本書の中で、鈴木がほとんどまったくと言ってよいほど「ホスト社会」とやらに対する批判的な考察をしていない点である。上記はまるで、子どものいる「善良」な非正規滞在者の権利が守られることで、子どものいない「善良」な非正規滞在者は犯罪者扱いされてしまう、本当は誰も悪くないのに・・・というような論理になっている。悪いのは外国人を「犯罪の温床」と見なす日本人(のレイシズム)に決まっていると思うのだが、本書が日本人のレイシズムについて取り上げている箇所はない。これでは「反日上等」と言いうる外国人*12の権利が守られるはずはないだろう。

 以上が総論である。次からは各論を見ていくことにする。

 (次回に続く)

*1:実際は日本人問題だが

*2:鈴木江理子、『日本で働く非正規滞在者―彼らは「好ましくない外国人労働者」なのか?』、明石書店、2009年、著者紹介より

*3:前掲書、p.5

*4:同上

*5:同上、pp.93-98

*6:同上、p.149

*7:同上、p.515

*8:ただし、後述するように、本書には例えば日系南米人などに対するレイシズムとしか言いようのない記述が見られる。

*9:同上、p.28

*10:同上、pp.491-492

*11:同上、p.223

*12:実際に「反日上等」というようなことを言うかどうかはともかくとして、日本人原理主義を心底快く思っている外国人がいるとはとても思えない。

「唯一の被爆国」は北朝鮮の核実験を非難できるか(5)

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 では、次に2について見てみよう。

  1. そもそも日本は「唯一の被爆国」ではない
  2. そもそも被爆「国」って何だよ

被爆「国」って何だよ

 これについては、以前のエントリーの繰り返しになるが、「広島・長崎で被爆したのは日本人だけではない。広島では7万人、長崎では2万人の朝鮮人被爆したと言われているが、朝鮮人は慰霊碑さえ自分たちの手で作らなければならなかった」という事実を指摘すれば足りるのではないかと思う。

 とはいえ、これだけでは説明不足だろうから、以下に伊藤孝司の『原爆棄民』を引用する(太字は引用者による)。かなり長くなってしまうのだが、これらはすべて解説文なので、できれば本書の証言を直接読んでいただきたい。

 さて、韓国・朝鮮人被爆者の証言と日本人被爆者の証言とは、「原爆と人間」という一般的な視点から見る限り、原爆に対する憎しみや怒り、恐怖感など、階級や民族を超えた共通の型を示している。しかし、一歩踏み込んで、社会的、民族的存在として両者を対比していく時、そこには、つぎのようないくつかの異なる特徴が存在する。

 第一に、韓国・朝鮮人被爆者の証言のすべてが、なぜ自分や親たちが日本に渡り、広島・長崎に行かねばならなかったのか、という被爆前史からはじまり、それは必然的に1910年の日韓併合と「日帝支配36年」に行き着くことになる。つまり、アメリカの原爆攻撃の前に、日本による朝鮮の略奪とアジア侵略の15年戦争があり、その時点において彼らはすでに母国を追われ、いっさいの権利と生活、文化をじゅうりんされた棄民、あるいは流民として渡日し、その多くが強制連行、あるいは一家離散の悲劇を体験しており、渡日後の差別と抑圧の体験もまた深刻であった。このことは、あとで彼らの多くが「原爆も地獄だったが、炭鉱も軍隊も地獄だった」と証言したことによっても裏付けられる。

 第二に、被爆時の状況が日本人の場合と異なり、その多くが戸外での作業中か、粗末な飯場内での被爆であったために、被害もそれだけ深刻で、被害後の救援も日本語が話せぬために手遅れになったり、時には放置されるという事態も起った。「アイゴー!(ああ!)」という悲鳴が差別ないし忌避の対象ともなった。

 また、彼らの多くは流民で頼るべき身寄りや共同体を持たず、広島のように戦前からの移住者が多い場合でも、爆心地に近く、共同体自体が崩壊し、新しい離散と死別が相いついだのである。

 第三に、戦後の韓国・朝鮮人被爆者たちの健康と生活・権利の問題をあげねばならない。それは、日本、韓国、朝鮮民主主義人民共和国のどこに居住するかによって条件が異なり、画一化できないが、日本残留、帰国のいずれの場合も、日本人被爆者とは異なる幾重もの苦難を背負わされることになった。祖国分断、朝鮮戦争などの朝鮮半島をめぐる戦後史の悲劇は、日本政府の一貫した外国人差別、抑圧政策によって市民権を奪われ、生活、健康、精神のすべての面で、深刻な苦痛を味わされた。

 韓国に帰還した被爆者の場合には、病気や貧困に加えて、言語・習慣の違いや、戦中の日本への協力などの理由による差別、原爆症の知識欠如から来る偏見など、精神的苦痛はさらに大きく、しかもそれはいっそう増幅しつつ今日まで持続しているのである。

 第四に、このような二重三重の苦悩を背負わされた韓国・朝鮮人被爆者の意識の問題を挙げねばならない。彼らにとって日本人の被爆は、あのような無謀な侵略を日起し、自ら原爆を招く結果になっただけのことであるが、その被爆の苦しみをなぜわれわれが強いられるのか、一切の原因は日本人にあり、日本帝国主義にある、という激しい憎悪と恨みを、彼らの多くが抱いていたことである。たとえば、1978年に広島県朝鮮人被爆者協議会がまとめた広島在住朝鮮人被爆者の実態調査の結果では、被爆の責任」を「日本」と答えている人が168人で全体の80パーセントを占めていることでも、このことがわかる。

 もちろん、原爆投下の直接の命令者はトルーマンであり、アメリカはその非道な加害責任を全面的に取らねばならない。しかし、このことは、日本政府の朝鮮略奪や侵略戦争という、原爆前の加害行為を冤罪することにはならない。まして日本政府は、サンフランシスコ条約アメリカに対する賠償請求権を放棄した以上、日本の被爆者へはもちろんだが、それ以上に、まず韓国・朝鮮人被爆者への国家補償を行うべきであろう。

 こうして、韓国・朝鮮人被爆者とは、アメリカの原爆犯罪と同時に日本の侵略戦争犯罪をも告発する存在であり、また戦後から今日に至るそれらの犯罪の隠蔽と加害放置の責任、さらには新たな核戦争への陰謀を、もっとも強く告発してやまぬ存在なのである。*1

 日本が被爆「国」であるいう言説から抜け落ちているもの――それは、「40年近くの日本の植民地支配と棄民政策、15年にわたる侵略戦争、そして戦後の対米追従と賠償責任回避、国内での差別と抑圧の持続、1965年の日韓基本条約での切り棄て、という一連の文脈でとらえるべき」*2朝鮮人被爆者の存在に他ならない。

 それでもなお、被爆「国」という言葉を用いる人たちには、その言葉が示す実体は、戦後の日本ではなく、大日本帝国だろうと言いたい。広島・長崎において、日本/日本人の戦争・戦後責任を後景化し、被害体験を前景化することは、論理的にも倫理的にも間違っている、と。

「唯一の被爆国」が核廃絶の実現を妨げる

 以上に見てきたように、日本が「唯一の被爆国」であるという言説は、日本/日本人が被爆体験の語りを占有することによって、結果として核廃絶の実現を妨げる役割を果たしていると思う。

 日本が植民地支配・侵略したアジア諸国では、日本の敗戦(によってもたらされる解放)を早めた広島・長崎への原爆投下に対して、それを肯定する(せざるをえない)声も少なくないだろう。けれど、もしも、日本/日本人が自らの戦争責任・戦後責任と真摯に向き合い――日本は「唯一の被爆国」であるなどというバカなことを言い出さず――朝鮮人被爆者に対して、日本人被爆者と同等あるいはそれ以上の国家補償を行っていたとすれば、どうだろう*3?そのときには、日本は米国にとっての利用価値もそれほど高くない、アジアの一小国になっていたかもしれないが、たとえそうであったとしても、核廃絶を願う日本/日本人の取り組みは、今とは比べ物にならないほどの説得力を持って、世界に受け入れられていたはずである。

 さて、ここで最初のエントリーで紹介した、北朝鮮の核実験を非難する広島・長崎の声を伝える中国新聞の記事を見てみよう。

核廃絶の機運に冷や水 広島・長崎の被爆地の憤り、激しく」(2009.05.25 中国新聞

 http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp200905250213.html

 オバマ米大統領の演説で核廃絶の機運が高まる世界的な動きに、冷や水を浴びせた北朝鮮の地下核実験。「全人類への挑戦だ」「核に頼るのは誤り」。かつて焦土と化した広島、長崎からは激しい憤りの声が相次いだ。

 核拡散防止条約(NPT)再検討会議の準備委員会で演説した広島市秋葉忠利あきば・ただとし市長は「被爆地の核兵器廃絶への願いを踏みにじる暴挙で、強い憤りを覚える」と厳しい口調で北朝鮮を非難。

 「核兵器のない世界」を表明したオバマ米大統領の演説からわずか一カ月半後の核実験に「こうした挑発的行動が、ほかの核保有国や保有願望国の核開発を加速させる」と懸念を表明した。

 これも以前の内容と重なるが、「オバマプラハでの演説は、真に受けたところで、核廃絶に対するやる気のなさを確信させるような内容である」。もっとも、オバマ「ホワイトハウス入りしてすぐに「アメリカは拷問をしない」と主張した」くせに、「実際にはグアンタナモ刑務所閉鎖どころか、同じように拷問が行われている海外の秘密収容所(バグラム基地等)も依然として維持し」、「ブッシュ同様に、容疑ナシ、裁判ナシで“テロ容疑者”の恒久的拘束を支持している」ような人間なので、真に受けようがないとも言えるが。

 私の闇の奥:「オバマ大統領は本当に反核か?」
 http://huzi.blog.ocn.ne.jp/darkness/2009/04/post_ddd0.html

 21世紀の日本と国際社会:「オバマ大統領の核兵器廃絶に対する基本認識」
 http://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/thoughts/2009/288.html

 それにしても、「全人類への挑戦」って・・・。北朝鮮政府は人類じゃないのだろうか?

 準備委に合わせ国連本部でスピーチした被爆者の岡田恵美子おかだ・えみこさん(72)=広島市東区=は「大統領演説で、長いトンネルに光が差したように感じていたのに…。がっかりすると同時に怒りでいっぱい」と話した。 

 「金正日(総書記)に原爆資料館を見てみろと言いたい」と語気を強めたのは、被爆体験を語り続ける細川浩史ほそかわ・こうじさん(81)=同市中区。修学旅行生らでにぎわう同市中区の平和記念公園で「自分の頭上に落ちないと分からないかもしれないが、そのときでは遅い」。

 被爆者に対して無神経であるという批判は甘受する。編集によって発言のニュアンスが加工されているのかもしれないとも思う。だが、「金正日(総書記)に原爆資料館を見てみろと言いたい」というのは、あまりにもひどい物言いではないだろうか。

 「前掲の表3*4によれば、広島・長崎で被爆したあと、帰国した被爆者は約2万3000人と推定されているが、このうち約2万人が韓国、残り3000人が北側の朝鮮民主主義人民共和国へ帰った、と推定されている。」*5

 「世界にある3万発の核兵器のうち0.01%を手にしていると言われる朝鮮の指導者は、日本の植民地支配を逃れて中国に移住したパルチザンを両親に持ち、日本の討伐隊に追われてロシアの野営地で生まれ育った難民の息子であった。そして朝鮮戦争の際は再び米軍のB29による絨毯爆撃を避けて中国に疎開し、瓦礫の山となった平壌へと戻ってきたのだった。」

 訳者あとがきβ版:「『二等兵の手紙』と『JSA』――59年目の6・25によせて。」
 http://d.hatena.ne.jp/mujige/20090625/1245930653

 広島と長崎で9万人もの朝鮮人被爆したことを、日本人が忘れているとしても、金正日が忘れている、などということがありえるだろうか?朝鮮戦争中、米軍の核の脅威によって、多くの朝鮮人が南北に一家離散したことを、日本人が知らないとしても、金正日が知らない、などということがありえないように。

 かりに、金正日が「原爆資料館」を訪れることがあるとすれば、死んでまでも自分たちを差別・分断し続ける日本に対して恨を募らせて当然だと思うのだが、発言者は金正日が「改心」するとでも思っているのだろうか?公平に言って、「改心」するべきなのは、「ある国の核実験には「唯一の被爆国」として、ある国の核技術に対しては「同盟国」として、都合よく立場を変えるような」日本/日本人の方ではないのか?

 「広島では韓国人原爆犠牲者の碑が、平和公園の外にあります。なぜ公園の中に建てさせてくれないのですか。日本人の碑と同じように、平和公園の中に移して下さい。死んでまで差別されるのはたまらないです」(白麟基 Paek In-Ki 「韓国に原爆病院を建設して下さい」)*6

 (※韓国人原爆犠牲者慰霊碑は、1999年にようやく平和公園内に移設されたが、同年の10月17日には慰霊碑にペンキがかけられる事件が起きた。)

 「自分の頭上に落ちないと分からないかもしれないが、そのときでは遅い」という、「被爆前史」を欠く被爆体験は、朝鮮人(あるいは中国人)被爆者の証言と比較することで、初めて(逆説的に)訴求力を持つように思う。

 「世界核安全サミット」の地元開催を呼び掛ける長崎市の田上富久たうえ・とみひさ市長も「核廃絶の流れが広がるタイミングを狙った悪意を感じる。国際社会への挑発で、核をなくさない限り、こうしたことが繰り返される」と述べ、北朝鮮に抗議文を送ることを明らかにした。

 「悪意を感じる」と言われても・・・普通に気のせいなんじゃないだろうか?

 「まず、私たちがしっかり踏まえるべきことは、金正日の朝鮮はモンスターでも何でもなく、巨象(アメリカ)、ライオン(日本)、虎(韓国)にいつ何時襲われるかもしれないと極度の緊張状態に置かれているハリネズミ(朝鮮)であるということです。金正日は、猛獣に取り囲まれて窮地に陥ったハリネズミさながらに、身を逆立てて絶望的な状況を何とかして打開しようと必死になっているであろうということです。朝鮮が行ういかなる軍事行動(核実験、ミサイル発射を含む)も、いつ襲ってくるか分かったものではない巨象、ライオン、虎に対して精一杯針を逆立てて我が身を守ろうとする自己防衛本能の現れにほかならないのです。そのような行動を「脅威」であると決めつけるアメリカ、日本、韓国の姿勢は、朝鮮(金正日)から見れば、朝鮮を押しつぶそうとする強圧以外の何ものでもないでしょう。」

 21世紀の日本と国際社会:「朝鮮の核問題解決の糸口:朝鮮の主張に耳を傾けてみよう」
 http://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/thoughts/2009/289.html

 「これを契機に日本で核武装論が出てくることに気を付けなければ」と懸念するのは長崎原爆被災者協議会の山田拓民やまだ・ひろたみ事務局長(77)。長崎原爆遺族会の正林克記まさばやし・かつき会長(70)は「北朝鮮が孤立しない方法を考えなければいけない」と述べた。

 原爆症認定訴訟をめぐり、民主党などに支援の申し入れを行った日本被爆者団体協議会の田中熙巳たなか・てるみ事務局長(77)は「核兵器など使えるわけがない。大統領の発言以来、核廃絶の実現に向けた流れが出来上がりつつあったのに、本当に残念だ」と無念さをにじませた。

 広島の核廃絶運動の問題点については、以下のエントリーが参考になります。

 21世紀の日本と国際社会:「広島の「平和」とその含意 」
 http://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/thoughts/2009/287.html

 また次回に続く。

*1:伊藤孝司、(解説/鎌田定夫)、『写真記録 原爆棄民―韓国・朝鮮人被爆者の証言』、ほるぷ出版、1987年、pp.225-226

*2:前掲書、p.229

*3:日本人被爆者もたいして補償されていないと言えばそれまでだが、それはまた別の問題だろう。

*4:「韓国人被害状況の推定」、韓国原爆被害者協会、1972年4月発表

*5:前掲書、p.227

*6:前掲書、p.195

「唯一の被爆国」は北朝鮮の核実験を非難できるか(4)

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 すっかり久しぶりになってしまったが、前回の続きを再開する。このエントリーについては、「唯一の被爆国」という言説の出所や流通範囲をきちんと調べてから続きを書こうと思っていたのだけど、怠惰のため、時間だけが無駄に経ってしまったので、とりあえず手持ちの材料で始めることにする。

 さて、ざっと調べてみた範囲では、日本が「唯一の被爆国」であるという言説は、かつて散々叩かれて、一時はマスコミ(の一部)でも自粛されていたらしいのだが、今ではすっかり与野党の共通認識として定着しており、マスコミの間でも「常識」化しているようである。そのことは、北朝鮮の二度の核実験、さらにオバマプラハ演説を受けて、衆参両院で全会一致で可決された一連の決議と、それらをめぐる日本国内での報道などからも明らかだろう。

 これらはいずれも、「唯一の被爆国」である「わが国」*1という特権的な立ち位置を取りながら、北朝鮮の核実験を非難し、核廃絶に向けた日本の取り組みを自画自賛している。ここには、日本が「反共と「国体護持」の為にアメリカと安保条約やいわゆる沖縄密約を結んで核の傘に入り、東北アジアの緊張激化と核戦争の脅威を与えてきた」こと、すなわち「朝鮮の人々にとっては、日本こそがアメリカによる「核の脅威」を支えてきた張本人」であるという認識はまるでないように見える。

 では、話を本題に戻そう。

  1. そもそも日本は「唯一の被爆国」ではない
  2. そもそも被爆「国」って何だよ

日本は「唯一の被爆国」ではない

 まず、1について述べる。米国を始めとする核保有国は、核実験を含む核開発の過程で、自国内あるいはその海外領土*2に暮らす多くの人々を、歴史的に被爆させてきた。

 米国では、広島と長崎への原爆投下に先立って、ウラン鉱山での採掘や、核兵器の製造・開発・実験に動員された労働者(その多くは先住民)が真っ先に核被害を受けたのであり、マンハッタン計画では、重病患者や受刑者を含むマイノリティなどが人体実験に利用され、放射性物質を直接体内に注入された。米国は、広島・長崎の後にも、信託統治*3にあるマーシャル諸島で核実験を繰り返し、1946年から1958年までに合計67発もの核実験を行った。とりわけ1954年の水爆実験(第五福竜丸被爆した)では、広島と長崎に投下した原爆を合わせた1000倍以上の破壊力を持つ「ブラボー」によって、いくつもの島が消滅し、少なくとも2万人以上が被爆した。

 1954年の水爆実験で、ロンゲラップが破壊され、私たちは避難しました。それから3年後、アメリカがもうロンゲラップは安全だといったので戻りました。でも、奇形の子供が生まれたり、これまでになかったような病気にかかり、島民は死んでいきました。私たちは怖くなって、ロンゲラップを逃げ出し、クワジェリン環礁のメジャットに移り住んでいます。ここは不毛の島です。この島に来たときは、何もなく、自分たちでやしの木を植えました。食べるものが十分に育ちません。魚も取れません。だから、アメリカが3ヶ月に1度送ってくる缶詰や小麦粉に頼っています。

 アメリカからロンゲラップに支給される補償金の一部は、島民に分配されますが、一人、3ヶ月に80ドルにしかなりません。これでは、にわとり1羽買うだけでおしまいで、毎日、十分に食べられない生活を強いられています。

 日本原水協:「マーシャル諸島
 http://www.antiatom.org/GSKY/jp/Hbksh/index-hbksh.htm#Anchor-35882

 米国に続いて核保有国となったロシアはカザフ共和国(当時)やアルハンゲリスク州で、英国はオーストラリアやクリスマス島で、フランスはアルジェリア*4ポリネシアで、中国は新疆ウイグル自治区で、それぞれ核実験を重ねてきた。

 ・・・というようなことは、多少調べればすぐにわかることであって、日本が「唯一の被爆国」であるという言説は、マーシャル諸島やオーストラリア、アルジェリアを「国」として認めないという、凄まじい植民地主義にもとづいているのでなければ、核実験による被害を「被爆」として認めない、あるいは、日本国外の被爆者の実態については無知であり続けようとする、寒気がするような傲慢にもとづくものだと思う。

 けれども、かりに、以上のことを知らずにいたとしても、米軍が湾岸戦争およびイラク戦争劣化ウラン弾を使用しており、深刻な被害をもたらしていることは、日本でも広く知られているはずである(正確に言うと、日本政府は自衛隊イラク派遣から2ヵ月後には、劣化ウラン弾の安全性を訴えるキャンペーンを始めていたのだが)。「劣化ウラン弾は、敵側の戦車・装甲車などを破壊する目的で「貫通性」を高めるために放射性弾頭を用いた一種の「(核爆発のない)核兵器」(米英軍の戦車・戦闘機などに装備)であり、強い重金属毒性とともに放射能毒性を持っている」。ちなみに、劣化ウランは、核兵器原発の核燃料製造の副産物として生じるため、米軍が使用した劣化ウランの中には日本産のものもあるという。

 湾岸戦争で米軍戦車は十数両が深刻な損傷を被った。これはすべて同士撃ちで劣化ウラン弾を撃ち込まれたことによる。破壊された戦車は放射性物質に汚染されたものとして扱われ、汚染が深刻な6両は米国に持ち帰れず、サウジアラビアの砂漠に穴を掘って埋めた。残りはサウスカロライナ州放射性廃棄物処分場に運ばれた。劣化ウランの"安全性"を対外的に主張する米軍が、内部では放射能汚染を認識していることになる。

 対照的にイラクでは、劣化ウラン弾に破壊された戦車や建物などが放置されたままだ。「これほどひどいダブルスタンダードは歴史的にも稀だろう」と山崎さんは言う。

 米軍戦車の汚染除去に携わったチームのトップが各メディアに明かしたところによると、チーム100人のうち10人が作業終了後、1年程度で死亡した。2001年の時点で30人が死に、このトップの体内からは平均的アメリカ人の1500倍のウラニウムが検出されたという。 

 劣化ウラン弾とは、日本も無関係ではない。ウラン濃縮によって排出される劣化ウランを日本の電力会社は所有放棄して、大半が米国やフランスに貯蔵されている。米国は自国に貯蔵されている劣化ウランから、劣化ウラン弾を作る。つまり米国の劣化ウラン弾の材料には、本来、日本の電力会社が所有すべき劣化ウランが混入していると山崎さんは指摘する。 

 日刊ベリタ:「イラクにぶちまけられた放射能兵器、「劣化ウラン弾」の恐怖 山崎久隆氏講演録」
 http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200309161953232

 恥知らずな劣化ウラン弾安全キャンペーンを推進してきた与党は論外としても、原水爆禁止日本協議会原水協)を支援する共産党や、原水爆禁止日本国民会議原水禁)を支援し、政府に「劣化ウラン弾による環境影響」に関する質問主意書を出した社民党までもが、日本を「唯一の被爆国」と見なしているというのは、あまりにもひどい話ではないだろうか。まして、日本が原発を手放さない限り、海外のウラン鉱山労働者や、国内外の輸送業者、国内の原発労働者は、これまでも、そしてこれからも、日本のせいで被爆し続けてきた(いく)のである。それも「平和」的に。

 伊藤孝司:「原発輸出・ウラン鉱山」
 http://www.jca.apc.org/~earth/sub1d.html

 美浜の会:「日本の原発奴隷」
 http://www.jca.apc.org/mihama/rosai/elmundo030608.htm

 もっとも、「日本唯一のクオリティマガジン」である『世界』も、2009年6月号の記事で、日本を「唯一の被爆国」と呼んでいたので、こうした人々は、単に

  • 自分たちと立場の違う人間(主に外国人)のことはどうでもよい
  • 自分たちはとにかく「唯一」の存在である

と言ってみたいだけなのかもしれない。ということは、やはり、あまりにもひどい話ではないか。『世界』の記事については後述する。

 次回に続く。

*1:それにしても、政治家やマスコミが愛用する、この「わが国」という言葉も、「唯一の被爆国」に引けを取らないほどキモいと思う。

*2:要するに植民地

*3:要するに植民地

*4:1960年に行われた最初の核実験は、イスラエルとの共同実験だった。

イスラエル化する日本

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ともだち暦元年

 先日、ふと気がつくと近所に「幸福実現党」のポスターが貼られていた。その日は友人と池袋で待ち合わせをしていたのだが、駅に着くと、幸福実現党が街頭演説をしていた。その後、銀座に出ると、なんと表通りに幸福実現党の事務所ができていた。これはどう考えても、不吉な前兆神仏の啓示に違いない・・・というわけで、以下取り上げてみる。ちなみに、知らない人のために書いておくと、幸福実現党は「幸福の科学」の政党バージョンである。

【7/1 追記】ここは、正しくは(法的には)「政党」ではなく、「政治団体」になるそうです。
http://d.hatena.ne.jp/m_debugger/20090624#c1246199930

 幸福実現党については、6月21日(日)付の読売新聞と産経新聞に、「新・日本国憲法 大川隆法試案」という全面広告が掲載されたので、知っている人も多いような、たいして多くないような気もするが、一言でいえば「主権が国民に存することを宣言しておらず、マスコミを制限し、日本国民全員を神仏に従うようにしている超危険な憲法」である。どうやら「『20世紀少年』はもう既に現実になっている」らしい。

幸福の科学のシナリオ通りに行くと、

  1. 次の選挙で幸福実現党過半数議席を獲得する。
  2. 憲法廃止、新・日本国憲法施行。(注:憲法改正ではない)
  3. 大統領制に移行。初代大統領として大川隆法が就任する。大川隆法が大臣やら法律やらを決める。

 破壊屋:「幸福実現党の新・日本国憲法
 http://hakaiya.web.infoseek.co.jp/html/2009/20090621_1.html

 ところで、大川隆法によると、新型インフルエンザがメキシコで発生したのは、

  • メキシコ経済への不安感
  • メキシコ政府への不信感
  • アメリカへの憎悪

「といった悪想念がメキシコ人たちの間に広がっているから」であるらしい。

何故インフルエンザは冬に流行するのか?というと

  • 秋は虫がたくさん死ぬ季節だ
  • だけど死んだ虫たちは成仏できない
  • 虫の不成仏霊がインフルエンザウイルスに帰依する

だそうだ。虫の霊ってのがすげーな、一寸の虫にも五分の魂だ。ちなみに花粉症は森林開発で伐採された植物の霊が原因だと主張している。

 破壊屋:「感染列島」
 http://hakaiya.web.infoseek.co.jp/html/2009/20090531_1.html

 ・・・というように、幸福の科学は強靭な反知性主義に支えられているという点で、米国のキリスト教原理主義と通じるものがある。ただし、米国でキリスト教原理主義が権力を得ているようには、日本で幸福の科学が勢力を広げる心配はないだろう。理由はいくつか考えられるが、最大の要因は、日本人の多くが天皇制という選民思想に安住しており、マジョリティにとってもバカバカしさが明らかな、よりマイナーなカルトなど今さらお呼びでないからである。これはこれで、というか、余計に心配であるわけだが。

イスラエル化する日本

 ところで、このエントリーの主旨は、幸福の科学幸福実現党のカルトぶりをさらけ出すことではない。そんなことは、幸福の科学幸福実現党に任せておけばよいのである。私が気になっているのは、こうした宗教的極右政党の登場に象徴される日本の政治情勢が、イスラエルの状況に非常に似てきている、ということだ。

 今、手元に幸福実現党のチラシがある。わざわざスタッフ(というか信者)に声をかけてもらってきたものだが、チラシの表上面には「北朝鮮のミサイルから守る政党?守らない政党」というキャッチコピーがある。幸福の科学は、自民党民主党の右派が縛られている「現実主義」から解脱しているだけあって、対・憲法および北朝鮮政策でためらいもなく極右路線を掲げ、しかもそれを売りにできるというわけだ。

北朝鮮ミサイル問題

4月に北朝鮮がミサイル発射実験を行った時に、大川隆法「レンジャー部隊が北朝鮮で軍事演習して、金正日を生け捕りにする」という保守の政治家でも言わないような暴走発言をかました。北朝鮮が核実験まで行った今の状況だと、エル・カンターレ大川隆法)が支持されて再び日本で幸福の科学ブームが来るかもしれない。どうでもいいが、この発言は後半の「生け捕り」よりも前半の北朝鮮で軍事演習」が意味不明だ。

 破壊屋:「俺たち幸福実現党!」
 http://hakaiya.web.infoseek.co.jp/html/2009/20090527_1.html

 ちなみに、チラシの表下面には、次のように書かれている。

不毛な自民・民主の二大政党制を終わらせ、第一党を目指します。

幸福実現党は「勇気ある繁栄」を実現します。

1.憲法9条を改正し、国の防衛権を定めます

  • 断固として、国民の生命・安全・財産を守ります。

2.「毅然たる国家」として独自の防衛体制を築きます

  • 日本の主要都市にミサイルを向けている中国や、核ミサイル開発を進める北朝鮮に対し、原子力潜水艦人工衛星から防衛できる核抑止力を築きます。
  • 北朝鮮が核ミサイルを撃ち込む姿勢を明確にした場合、自衛隊がミサイル基地を攻撃します。

3.日米同盟を堅持しつつ、国益重視の外交を行います

  • インドとの同盟関係、ロシアとの協商関係を目指すとともに、オーストラリアとの関係強化などによって味方を増やし、日本を守ります。

 幸福実現党は、宗教法人「幸福の科学」を母体にした政党です。開かれた国民政党として、国民一人ひとりの声に耳を傾け、必ず国政に反映していきます。

 要するに、

を主張しているわけである。幸福実現党憲法廃案について、今週号(6/24号)の『マガジン9条』で鈴木邦男「景山原案の方が、より宗教的であり、より「9条的」なのだ。これは是非、景山原案に近づけてもらいたいと思う」と書いていたが、こんな政策と比べたら、憲法9条を書き換える自民党改憲案ですら「より「9条的」」と言える。

 幸福の科学は、どうやら千葉県知事選の勝利で自信をつけたようだが、創価学会ほど大衆的な基盤があるわけではなく、選挙戦略にそれほど通じているとも思われない。幸福実現党が、衆院選後に行われるであろう政界再編のキャスティングボートを握ることはさすがにないだろうが、幸福の科学の政界デビューは、「在日特権を許さない市民の会」の街頭デビューと同様、日本社会のいっそうの劣化――イスラエル化と言ってよいかもしれない――を象徴していると思う。

選挙戦

しかし幸福の科学の選挙活動には驚いた。300の選挙区全てに候補者を立てるというのだ。これぞ真のスリーハンドレッド!ジィス・イズ・エルカンターレ。日本中に候補者が出現すれば、当選者が出なくても大きな宣伝となるだろう。さすがに300の選挙区全てに信者がいるはずもなく、現在候補者を募集している。

 ところで、近所に貼られていたポスターは、たった3日で上・右・左の3面がはがれ、白々とした無残な姿をさらしている。接着面を見ると、普通の両面テープで止めてあった・・・なんだか思いっきりDIYだよな。

 また話がそれてしまった。イスラエルの総選挙についての分析は、以下のサイトに詳しいので、ぜひご覧いただきたい。

 パレスチナ情報センター:「イスラエル総選挙を終えて--消えた政治的争点」
 http://palestine-heiwa.org/note2/200604010152.htm

パレスチナ和平をどうするかという政治的争点は皆無だった」ということが顕著です。何よりも、「一方的撤退」と「分離壁」による「国境画定」について、完全に一致を見ていたカディマ労働党のあいだに論戦が存在せず、合併でもしたらどう?ってくらいなのですから。

 次の衆院選では、対北朝鮮政策が一つの争点になるだろうが、北朝鮮への制裁強化については衆参両院とも全会一致で決議を採択しているので、各党の相違は、望ましい制裁のレベルがどの程度であるか、といったことでしかない。

 そもそもシャロン健在時のリクード政権下で押し進められてきた一方的撤退は、「パレスチナは交渉相手にならない」「和平合意は必要ない」「好きなところに国境線を引いていい」「西岸地区のほしい土地は一方的にもらっていく」というとんでもない政策です。オスロ合意やロードマップ(いずれもイスラエル側に偏ったものだとはいえ、最低限の国際的合意)もすべて葬り去るもので、実のところイスラエル側がそうした合意を遵守してきたことなどないのですが、今は公然と過去の合意を破棄しているのです。それでいてハマスに対して、「過去の合意の遵守」を求めるなんていうのはとんでもない矛盾なのですが、、、それはさておき。

 このどうしようもない「一方的撤退」政策に原則同意してしまっているもう一つの政党が、メレツ。マイノリティの人権尊重を訴える「左派」を自任しており、かつてオスロ合意の裏の立役者であった(当時労働党にいた)ヨッシ・ベイリンが党首を務めています。そのメレツもまた、カディマ労働党と立場を同じくしているのです。これが、現在新聞やニュースで「世俗的な左派・和平派による連立の基軸」と呼ばれているものの実態です。もちろんここで言う「和平」と言うのは、「合意なき和平」のことですが、ともあれ主戦論や大イスラエル主義ではないことから、「左派・和平派」と言われてしまう。

 日本でも、ここ数年の急激な右傾化にともなって、解釈改憲派が(核武装論や先制攻撃論ではないことから?)「リベラル・左派」と呼ばれるような現象が起こっている。イスラエルにとってのオスロ合意は、イスラエルに一方的に有利であるにもかかわらず、イスラエルがそれを一方的に破棄してきたという点で、日本にとっての平壌宣言と似ているかもしれない。

シャロンが、和平合意によるパレスチナ独立という二国家案ではなく、かと言って大イスラエル主義的全面占領でもなく、そのあいだの独自の中間形態で「一方的撤退」という道を敷いたのは妙案であり、そこに人びとが現実主義的になだれ込む構図が理解できます。また、労働党もメレツもそうした人びとと同じように、非主体的に撤退案へ便乗するしかなかったように見えます。

 シャロンの「一方的撤退」にあたる「妙案」の日本版が、安部政権が逆説的に推進した「戦後レジームの擁護」だろう。アジアから見れば「一方的」極まりない、どうしようもない政策である点も、そっくりである。「和平=治安問題はもう中心的争点ではないから(すでにシャロン路線で既定)、国内の社会政策を中心課題にしよう」という社会の内向化も、日本にはびこる排外主義としての格差社会論そのままだ。幸福実現党の行く末はともかく、日本のイスラエル化については、冷静な分析と対策が必要であると思う。

<佐藤優現象>やめますか、それとも人間やめますか。

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佐藤優現象>やめますか、それとも人間やめますか。

 前号(5/29号)の週刊金曜日で、佐高信壮絶な最期を遂げていた。<佐藤優現象>を積極的に推進した言論人のなれの果てが今日の佐高であることを思えば、多くの言論人にとって佐高の最期は他人事では済まされないはずである。

 というわけで、僭越ながら、言論人の皆様にメッセージを贈ることにした。出版各社におかれては、これを在りし日の佐高の写真と並べて、社内掲示板にでも貼っておくとよいのではないだろうか。もっとも、<佐藤優現象>を推進する前の佐高の言説がそれほど感銘的だったかどうかは、また別の話ではあるが。

 以下はもう少し真面目な話。

「九・一九共同声明」とは何か

 週刊金曜日の最新号(6/5号)に、康宗憲氏による「北朝鮮のロケット発射と核実験 オバマ政権の安保理制裁は有効か」という記事が寄稿されている。『金曜日』が北朝鮮関連報道でこれほど良心的な記事を載せてくるということは、同誌の北朝鮮バッシングに対して、編集部も無視できない質量をともなう批判が寄せられたのではないかと勘ぐりたくもなるが、まずは康宗憲氏の記事を紹介したい。

 康宗憲氏は、「九・一九共同声明」(リンクは外務省による仮訳*1)が、

  • 六カ国協議の目標を「朝鮮半島の非核平和(北朝鮮の核放棄ではない!)」としていること
  • 上記の目標を「北東アジア地域の冷戦構造(朝鮮戦争の休戦体制と米朝・日朝の敵対関係)を解体する過程で実現できる」と規定していること
  • 各国相互の主権尊重と平等の原則に基づき、「行動対行動」の原則によって合意を相互に履行するよう銘記していること

を改めて指摘している。便宜のため、「九・一九共同声明」(以下「2005年共同声明」)を検証するサイトから引用する(強調は引用者による)。

 2005年共同声明は、「六者会合の目標は、平和的な方法による、朝鮮半島の検証可能な非核化」であるとしています。後で述べるように、共同声明はそのほかにも4つの問題を扱っていますが、もっとも重要な問題は朝鮮半島の非核化実現であることを、朝鮮も含めた六者が確認しているのです。その具体的な内容として、次の諸点が明記されました。

 (1)朝鮮民主主義人民共和国は、すべての核兵器及び既存の核計画を放棄すること、並びに、核兵器不拡散条約及びIAEA保障措置に早期に復帰することを約束。

 (2)アメリカ合衆国は、朝鮮半島において核兵器を有しないこと、及び、朝鮮民主主義人民共和国に対して核兵器又は通常兵器による攻撃又は侵略を行う意図を有しないことを確認。

 (3)大韓民国は、その領域内において核兵器が存在しないことを確認するとともに、1992年の朝鮮半島の非核化に関する共同宣言に従って核兵器を受領せず、かつ、配備しないとの約束を再確認。

 (4)1992年の朝鮮半島の非核化に関する共同宣言は、遵守され、かつ、実施されるべきである。

 (5)朝鮮民主主義人民共和国は、原子力の平和的利用の権利を有する旨発言。他の参加者は、この発言を尊重する旨述べるとともに、適当な時期に、朝鮮民主主義人民共和国への軽水炉提供問題について議論を行うことに合意。

 2005年共同声明では、米朝関係について、次の約束をしました。

 朝鮮民主主義人民共和国及びアメリカ合衆国は、相互の主権を尊重すること、平和的に共存すること、及び二国間関係に関するそれぞれの政策に従って国交を正常化するための措置をとることを約束。」(2項の一部として。その前には、「六者は、その関係において、国連憲章の目的及び原則並びに国際関係について認められた規範を遵守することを約束した。」というくだりがあることも忘れてはいけません。この一般的な約束は、米朝関係だけではなく、日朝関係をも拘束します。国連憲章の目的及び原則の中でも重要なものは、独立国家の主権尊重であり、内政不干渉です。)

 21世紀の日本と国際社会:「六者協議:共同声明検証」
 http://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/thoughts/2007/174.html

 康氏は次のように続ける。六カ国協議や米朝対話が進展するのは、この同時行動の原則が守られている時期であり、他国が北朝鮮に一方的な義務の履行を強いる「単独行動」を求めた場合には、交渉が難航する。ところが、米国も日本も、こうした単純な経験則に学ぶことができず、六カ国協議をあたかも北朝鮮に懲罰を与える場であるかのように錯覚し、独善的かつ被害者的に振舞っている、と。

 日本は、表面的には拉致問題の「解決」に固執するあまり*2北朝鮮に対する主権尊重と内政不干渉、同時行動を遵守するという六カ国協議の原則から、ガターを繰り返してきた。米国と韓国に関して言えば、16日に開かれる米韓首脳会談に向けて、米国の「核の傘」提供(「拡大抑止力」の強化)を明記する動きがあり、そうなれば同時行動の原則の前提であったはずの2項と3項は完全に死文化するだろう。

 ところで、六カ国協議の参加国のうち、北朝鮮と他の五カ国の間には、GDPで数十倍から数百倍の格差がある。軍事費については、米国が単独で世界の4割以上を占めているので、比較をするのもバカバカしいが、北朝鮮(や世界の大半の国々)から見れば、中国(世界2位)やロシア(世界5位)、日本(世界7位)、韓国(世界11位)にしても、恐ろしいほどの軍事大国である*3

 何が言いたいかというと、「九・一九共同声明」で規定されている「行動対行動」の原則は、それが遵守されているときでさえ、北朝鮮により重い負担を強いるということである。国交もなく、あからさまに自国を敵視する軍事大国を相手取り、超大国に実質的な行動を促すためには、北朝鮮にとって核以上に有効な「カード」はありえず、それを簡単に放棄することは難しい。

 同号の『金曜日』には「あらゆる制裁を恐れない国」という成田俊一の現地ルポもあり、こちらも興味深い内容なのだが、北朝鮮のこうした選択は、金正日ら政府の独断というよりも、近現代を通じて帝国主義*4の侵略と最前線で戦い続けてきた民族としての総意と言えるのではないかと思う。北朝鮮の国民は独裁者・金正日の哀れな被害者である」という、「リベラル・左派」に支配的な認識は、端的に朝鮮蔑視の裏返しであり、他者感覚が完全に欠落した、歪んだ精神世界の産物である。以下にその典型例を挙げておく。【6/11 追記】この部分はかなり乱暴でした。申し訳ありません。追記を入れました。

 憲法を守ろうと活動する「九条の会」が2日、発足から丸5年となったことを記念して東京都千代田区日比谷公会堂で講演会を開いた。呼びかけ人の一人で、昨年末に亡くなった加藤周一さんの志を受け継ごうと、壇上には加藤さんの写真が掲げられた。

 講演した作家の大江健三郎さんは「核保有国と非核保有国との間に信頼関係がなければ、核廃絶は始まらない」という加藤さんの指摘を紹介。「そんな信頼関係などあるものかと笑いを浮かべた人もいるでしょう。例えば北朝鮮との間に。でも私は日本としてのやり方はあると思う。私たちが不戦の憲法を守り通す態度を貫くなら、信頼を作り出す大きな条件となるのではないか」と語った。

 「九条の会」発足5年記念、大江健三郎さんが講演」(2009.06.02 朝日新聞
 http://www.asahi.com/national/update/0602/TKY200906020371.html

 「九条の会」関係ではこんなものまであり、もう笑うしかない。というか、普通に笑った。ここまで愚民観を炸裂させた「護憲論」が、大衆に支持されることは2万パーセントありえないだろう。

6/11追記

 上記で、「他者感覚が完全に欠落した、歪んだ精神世界の産物」として、「九条の会」発足5周年記念での大江健三郎の発言を引きましたが、この部分は非常に乱暴な論理展開だったと思います。反省して以下に追記します。

 私が上記の文章を書くときに念頭に置いていたのは、「九条の会」事務局が自衛隊日米安保の撤廃を主張していない、ということです。実際には「九条の会」は勝手連的ネットワークのようなものなので、自衛隊日米安保の撤廃を掲げて運動にコミットしている会員ももちろんいるのですが、「九条の会」のオフィシャルサイトを見る限り、かれらが批判しているのは、自衛隊と米軍の一体化や、集団自衛権の行使、日米安保の強化といった動きであって、自衛隊日米安保そのものではありません。

 このことについては、当の「九条の会」がメルマガで紹介しているので、以下に引用します。

◆「神奈川新聞」社

 11月30日、「九条の会 多様な議論の広がりに期待」とのタイトルの「社説」を掲げました。

 「社説」では、「九条の会」結成から3年半が経過したことを紹介し、「この1年半に、全国で1627、県内で57増えた。集会には全都道府県から約千人が参加し、すべての小学校区(約2万2千)に草の根の会をつくるという壮大な目標も掲げた。改憲をめぐる攻防において、『九条の会』は護憲側の連帯の結節点となりうる存在だけに、行動の行方を注目したい」と述べています。

 そして、「草の根の会の結成は、それぞれ当事者任せ。非武装中立派から、政府の現在の九条解釈論を支持する自衛隊日米安保容認派まで、会員は“多様性”を誇っている」ことが「九条の会」の特質であることを指摘しています。

 九条の会メールマガジン vol.37:「憲法9条、未来をひらく」
 http://www.9-jo.jp/news/MagShousai/MMS071210.htm

 つまり、「九条の会」事務局は、「非武装中立派から、政府の現在の九条解釈論を支持する自衛隊日米安保容認派まで」の人々を「護憲派」として取り込むために、自衛隊日米安保という論点をあらかじめ棚上げしているわけです。後述する「「九条の会」アピール」を見てもそのことは明らかだと思いますが、過去のメルマガでも、「日米安保」という言葉が本文中(各地の「九条の会」が開催するイベント名などではなく)に現れるのは数えるほどしかなく*5、それも日米安保そのものではなく、日米安保が強化されることが問題である、という趣旨になっています。

 安倍氏はまた、9月1日に発表した政権公約美しい国、日本。」において、「『世界とアジアのための日米同盟』を強化させ、日米双方が『ともに汗をかく』体制を確立する」ことをあげている。

 私たちは、このような「公約」は、日米双方が『ともに汗をかく』どころではなく、『ともに血を流す』危険な道を追求するものと言わざるを得ない。そのことは、直近では、「イラク戦争」の経過と現在(戦争開始後現在までの米兵の死者は2651人と報道されている!)を見れば明らかである。このような公約を掲げ、集団的自衛権行使を容認するということは、まさに軍事同盟条約である日米安保条約を強化し、日本を米国等と共に「戦争する国」にすることにほかならない。

 九条の会メールマガジン vol.11:「憲法9条、未来をひらく」
 http://www.9-jo.jp/news/MagShousai/MMS060925.htm

 次に、加藤周一と大江健三郎が起草した「アピール」を見てみます。

九条の会」アピール

 日本国憲法は、いま、大きな試練にさらされています。

 ヒロシマナガサキの原爆にいたる残虐な兵器によって、五千万を越える人命を奪った第二次世界大戦。この戦争から、世界の市民は、国際紛争の解決のためであっても、武力を使うことを選択肢にすべきではないという教訓を導きだしました。

 侵略戦争をしつづけることで、この戦争に多大な責任を負った日本は、戦争放棄と戦力を持たないことを規定した九条を含む憲法を制定し、こうした世界の市民の意思を実現しようと決心しました。

 「九条の会」アピール
 http://www.9-jo.jp/appeal.html

 第二次世界大戦の「悲惨な経験」の頂点が広島と長崎であるという認識は、大江が『あいまいな日本の私』で語っていることでもあります。

・・・われわれは、ゆがんだ貧しい近代をつくってしまった。そして大きい戦争を惹き起こして、悲惨な経験をした。その頂点に広島と長崎があります。そのことをわれわれは、自分たちの文化の問題として、文明の問題としてあらためて徹底的に考えるべきではないか?*6

 戦後五十年たって、日本人がいちばん記憶しなきゃいけないのは、広島でそういうことが行われた、長崎でそういうことが行われた、ということです。人類は黒色火薬をつくった、TNT火薬をつくった。それで人間を破壊することが始まった。しかし原爆・水爆というものは全く違った規模のもので、核兵器は本当に人類を絶滅してしまうことが可能になった最初の手段です。それが最初に日本人の頭上に落された。*7

 大江は(別の講演では)朝鮮人被爆者についても言及しており*8、必ずしも日本人の被害を特権化しているわけではないと思いますが、大江がこのように言及しているのは、広島と長崎の経験こそが「人類」史上の悲惨の「頂点」であり、まさにその点において日本人と朝鮮人を区別することに意味はない、と考えているからではないでしょうか。

 けれども、大江(出典はジョージ・ケナン)が言うように、「人類の文明全体に対する傲慢、涜神、そして侮蔑が核兵器の使用だという、大きい文明的な構想に結びつけうる考え方」*9からは、核兵器の使用(というより保有)があくまでその一手段にすぎない、世界的な抑圧と収奪の支配構造への批判に直接つながる論理は見出しにくいように思います。「アピール」や、『あいまいな日本の私』が、日本による朝鮮植民地支配の問題を語っていないこと、「この戦争から、世界の市民は、国際紛争の解決のためであっても、武力を使うことを選択肢にすべきではないという教訓を導きだしました」という「アピール」が、戦後に展開された第三世界独立運動を総じて無視しているらしいことは、注意が必要だと思われます。

 他国を侵略し、支配するためには、必ずしも核兵器や直接的な武力の行使は必要なく、まさにそうした侵略こそ、戦後の日本がアジア諸国(ひいては第三世界)に対して一貫して行ってきた(いる)ものでしょう。そうした認識を根底から問うことなく、広島・長崎や憲法九条を、安易に「人類」の共有体験・財産につなげるような言説は、世界の人々(人類)にどこまで支持されるのか、心もとなく思います。

 話を「アピール」に戻します。

 アメリカのイラク攻撃と占領の泥沼状態は、紛争の武力による解決が、いかに非現実的であるかを、日々明らかにしています。なにより武力の行使は、その国と地域の民衆の生活と幸福を奪うことでしかありません。一九九〇年代以降の地域紛争への大国による軍事介入も、紛争の有効な解決にはつながりませんでした。だからこそ、東南アジアやヨーロッパ等では、紛争を、外交と話し合いによって解決するための、地域的枠組みを作る努力が強められています。

 米国がイラクを侵略したのは、そもそも「紛争の武力による解決」などのためではありませんでしたし、今もそうですが・・・。

 憲法九条に基づき、アジアをはじめとする諸国民との友好と協力関係を発展させ、アメリカとの軍事同盟だけを優先する外交を転換し、世界の歴史の流れに、自主性を発揮して現実的にかかわっていくことが求められています。憲法九条をもつこの国だからこそ、相手国の立場を尊重した、平和的外交と、経済、文化、科学技術などの面からの協力ができるのです。

 「アピール」が実質的に日米安保に触れているのはこの部分です。一見、「アメリカとの軍事同盟」を批判しているように見えますが、実際に批判の対象になっているのは、「アメリカとの軍事同盟だけを優先する」ことであり、米国を数ある「同盟国」の一つとするような安全保障体制を築くことは必ずしも否定されていません。このあたりも、より広範な層を「護憲派」に取り込むための戦略だと思われます。

 また、大江に関しては、次のエピソードも忘れてはならないでしょう。

大江健三郎金芝河との対談で、「世界はヒロシマを覚えているか」と問い掛けました。すると金芝河は即座に、「では日本は南京を覚えているか」と反問し、大江はそれにまともに答えることができませんでした。

 mujigeの資料庫:「世界はヒロシマを覚えているか(1)「ヒロシマ原爆も捏造だった?」」
 http://d.hatena.ne.jp/ytoz/20090320

 大江は2006年には南京大虐殺記念館を訪れていますし、私も最近の大江の言説を追っているわけではないので、「アピール」と『あいまいな日本の私』を並べて批判することは、適切ではないかもしれません。ですが、「九条の会」が、自衛隊日米安保に対する国民的支持ないし黙認といった日本国内の事情から、そうした問題に触れない「護憲論」を展開しているのは、結局のところ沖縄やアジアを軽視しているからではないでしょうか。

 北朝鮮にとって最大の脅威の一つである日米安保について、大衆に問題提起をしようと思えばいくらでもできる立場にあるにもかかわらず、それを怠り続けてきた一方で、北朝鮮との信頼関係の構築を訴える九条の会」/大江の姿勢は、やはり「他者感覚が完全に欠落した、歪んだ精神世界の産物」であると思います。【6/12 訂正】ことには疑問を感じます。たびたびの訂正すみません。表現が不適切とのご指摘を受けて修正します。なお「九条の会」を総体として批判しているわけではなく、私自身も呼びかけ人や「九条の会」に関わる人々から教わってきた(いる)ところが大きいことも付記しておきます。

 ・・・と、本来なら最初からここまで書くべきでした。まだ説明不足の点があるかもしれませんが、お気づきの点がありましたら、どうぞご指摘・ご批判ください。今後ともよろしくお願いいたします。

*1:てか、いまだに仮訳ってどんだけ北朝鮮蔑視なんだよ、と思って資料を検索していたら、なんと「世界人権宣言」や「障害者権利条約」まで仮訳のままだった・・・。わかりきっていたことではあるが、日本はしみじみ終わっている。しかも世界人権宣言の第21条3項は文法的におかしくないか?

*2:実際には、日本は拉致問題があろうがなかろうが北朝鮮を対等な国家とは見なしていない。

*3:http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp200906090194.html

*4:日本とか日本とか日本とか米国とか米国とか日本とか

*5:数え間違いでなければ二回。そのうち一回は論旨には直接関係ない形で言及されている。ただし「日米同盟」という言葉は何度か使われている。

*6:大江健三郎、『あいまいな日本の私』、岩波新書、1995年、p.228

*7:前掲書、p.119

*8:「それは日本人にとどまらず、朝鮮語を母国語とする多くの人びとをふくんでいます」(前掲書、p.9)

*9:前掲書、p.26